B展示室:トピック展示

修験の聖地と「なりわい」―鎌倉時代における葛川の紛争―

期間:平成28(2016)年2月9日(火)~3月13日(日) ※休館日:2月15日(月)、22日(月)、29日(月)、3月7日(月)

場所:B展示室【人と琵琶湖の歴史】内 ※B展示室は常設展示観覧料でご覧いただけます

展示解説(フロアートーク):2月14日(日)11時~/3月13日(日)14時~ ※展示内容を詳しく解説します

青蓮院宮尊円入道親王令旨
青蓮院宮尊円入道親王令旨

天台修験の道場として、現代も参籠修法(さんろうしゅほう)が行われている葛川(かつらがわ)は、平安時代の修行僧である相応(そうおう)が、志古淵大明神(しこぶちだいみょうじん)から譲られた聖地として、多くの人々の信仰を集めました。 一方、炭焼きを「なりわい」とする隣の伊香立庄(いかだちのしょう)は、領主である青蓮院など、首都京都の需要を背景に炭焼きを拡大し、葛川と激しい紛争を巻き起こします。

今回のトピック展示では、この紛争に関わる当館所蔵の「青蓮院宮尊円入道親王令旨」を初公開し、紛争の過程で作られた彩色絵図(重文・明王院所蔵)の写真パネルとともに、葛川にまつわる館蔵資料を紹介します。

展示資料

初公開

《原本》青蓮院宮尊円入道親王令旨
(しょうれんいんのみや そんえん にゅうどう しんのう りょうじ)

鎌倉時代後期・1329年(元徳元年)/本館蔵

鎌倉時代の葛川は、周辺庄園との境相論に明け暮れていました。中でも、文保元年(1317年)に始まった、下立山(おりたてやま)の使用と収益をめぐる伊香立庄との対立は、多数の死傷者を出す大惨事となりました。本文書は、当時青蓮院門跡であった尊円入道親王が、支配する無動寺(むどうじ)に宛てて、側近に書かせた奉書です。元応二年(1320年)の和与(和解)で定められた葛川領に、不当に侵入した伊香立庄側を厳重に制止するよう命じています。

白高院公儀御礼等請取
(びゃっこういん こうぎ おんれい とう うけとり)

江戸時代前期・1630年(寛永7年)/本館蔵
青蓮院宮尊円入道親王令旨付属品

葛川の支配体制は、第三代青蓮院門主である慈円(じえん)が確立したといわれています。慈円は無動寺「検校(けんぎょう)」を兼ねて最高支配者となり、青蓮院の門徒を無動寺「別当」に任じ、別当はさらに無動寺の衆徒を「預所」に任じ、租税の徴収など実務を担当させていたのです。 令旨と同じ箱に入れ、大切に保管されてきた本紙は、無動寺から幕府(第三代将軍徳川家光)へ納める金銭を確かに受領したという証文だと思われます。

途中越・伊香立越・仰木越道筋最寄村々凡麁絵図
(とちゅうごえ・いかだちごえ・おうぎごえ みちすじ もより むらむら およそ あら えず)

江戸時代・18~19世紀/本館蔵

近江国途中村(現 大津市)は、葛川谷で千日の修行を終えた相応が「ここは無動寺(比叡山)と葛川の途中か」と尋ねたことが地名の由来といわれ、入山する人が必ず花を供えて準備を整える途中堂(勝華寺:しょうけじ)があります。本図は途中峠・伊香立峠・仰木峠をこえて京都大原へ通じる山越えの道を描いた絵図で、山城の村を桃色、近江の村を白、主要な街道を黒、脇道を赤で色分けしています。また、江戸時代の伊香立五村である生津(なまづ)、上在地(かみざいじ)・向在地・下在地・北在地も記されています。

淡海録(おうみ ろく) 巻二

江戸時代中期・1731年(享保16年)写/本館蔵

松本村(現 大津市)に生まれ育った原田蔵六が、元禄期(1689~97年)にまとめた近江国(滋賀県)の地誌です。本展示では、平安時代はじめに葛川三の滝で厳しい修行をしていた相応が不動明王を感得したという、『宇治拾遺物語(鎌倉時代はじめの説話集)』の記事を紹介しています。のちの相応伝には、地主神信興淵大明神から四至を限って葛川を譲られたことや、明王が変じた霊木で三体の不動尊像をつくり、無動寺、明王院、伊崎寺に安置されたことが書かれています。

≪パネル展示≫

細見新補近江国大絵図
(さいけん しんぽ おうみのくに おおえず)

江戸時代後期・1856年(安政3年)/本館蔵

琵琶湖を中心に、近江国全体を色分けして描いた江戸期のイラストマップです。右下の表には「堅田(かたた)より出舩(でふね)、便利よし、葛川明王院へ六里(約24km)」とあり、相応和尚が葛川谷で感得した霊木で本尊を刻んだといわれる明王院、伊崎寺、無動寺も本図に記載されています。

葛川与伊香立庄相論絵図
(かつらがわ と いかだちのしょう そうろん えず)

写真/鎌倉時代後期・1318年(文保2年)/明王院蔵

葛川と、南に位置する伊香立庄との利害の対立は50年以上に及び、遂に文保元年(1317年)、武力衝突によって死傷者を出す事態となりました。本図左下に大きく描かれた地主権現と明王院、林立する参籠札、伊香立側が境界を侵して作った炭竈、それを参籠中の行者が打ち壊したという注記などから、聖地を強調する葛川側の主張がうかがえます。