展示

B展示室:人と琵琶湖の歴史

B2 利用のはじまり

このコーナーでは琵琶湖周辺の古代から近世までの水運の発達を中心に紹介します。 古代のようすについては考古学的資料だけでなく万葉集や日本書紀といった最古の文献資料からも明らかにされています。 これらの伝えるところによると、667年から672年まで琵琶湖の南の湖畔には大津宮という都がありました。都が作られ国家としての体制も整備されると、人やものの動きも盛んになります。 琵琶湖から流出する瀬田川にかかる瀬田の唐橋はそのような交通の要所のひとつであり、有名な壬申の乱が示すように、国の権力争いによる戦いの舞台ともなりました。 ところで、この地域の発展に重要な役割を果したのは海をわたって大陸からやってきたひとびとでした。琵琶湖周辺には唐橋をはじめとして、朝鮮半島の文化と大変類似した資料が今も多く残されているのです。

中世以降も北国や東国の物資の輸送ルートの一つとして琵琶湖周辺の重要性は変わりません。 後に湖上輸送の中心的役割を果すようになる丸子船はその象徴的な存在でもあり、近世から戦前にいたるまで主に米の輸送に活躍していました。 一時は1000隻をこえる丸子船が琵琶湖を航行していましたが、戦後にはその役割を終えました。展示室中央に置かれている丸子船は半世紀ぶりに製作されたものです。

B2-1 古代の琵琶湖

B2-1-1 湖畔の都と万葉集

667年(天智天皇6年)、天智天皇はいまの大津市の湖畔に都をうつしました。 これを近江大津宮と言います。 都がおかれていたのはわずか5年でしたが、この都や美しい琵琶湖のようすは多くの歌に残されています。

B2-1-2 湖と古代の交通

都がつくられ、国家としていろいろな体制が整備されてくると、人やモノの組織的な動きもさかんになります。近江はそうしたなかでも、とりわけ重要な位置にありました。

【古代勢多橋】瀬田の唐橋は、勢多橋(あるいは瀬田橋)の別名で、琵琶湖から唯一流れでる河川、瀬田川にかかる旧東海道の橋です。 1988(昭和63)年、瀬田唐橋の下流80メートル付近の水深3メートルの川底で7世紀の唐橋の基礎部分が、発掘調査によって発見されました。 この橋は、古代から交通の要衝で、都を中心とする畿内の実質的な東の関所にあたりました。 琵琶湖と瀬田川が都の東の防衛線だったのです。 橋は木製で、朝鮮半島の技術で7世紀に作られたものであることがわかりました。 その後何回も方向や場所を移動して付けかえられ、石製の基礎部分もたくさんみつかりました。 展示されている擬宝殊も実物ですが、1964(昭和39)年に改修されたときにつくられたあたらしいものです。

【橋脚基礎】勢多橋は、川底にアカガシの丸太を11本ならべた上に、ヒノキの角材を六角形に組み、そこに6本の柱を立てて橋脚にしていました。 またこの基礎部分はたくさんの石で押さえられていました。 基礎と基礎の間は15メートルはなれていることから、橋を直接支える横方向の材の厚みが80センチメートルはあった巨大な橋であったと推定されています。 基礎材のうちのヒノキは、年輪年代測定法により西暦607年直後に伐採されたものであることがわかっています。

【手斧、鎹、釘】 橋の基礎部からはたくさんの釘や鎹など木造橋の部品に加え、手斧などの大工道具もみつかりました。 釘などはかなりの大型品で、この橋が巨大で何度も付けかえられたことを物語っています。 橋の基礎の下には、4つの鉄鉱石も置かれていました。 鉄に象徴されるように、この橋が丈夫で長持ちするようにという建造者の願いがこめられていたようです。

【刀】 672年、有名な壬申の乱がおこり、最後の決戦がこの橋の上でおこなわれたことが知られています。 ここで大友皇子の近江朝廷側は破れ、大津宮もわずか5年5カ月で滅んでしまいました。 この橋脚は、まさにその最後の決戦がおこなわれた橋だと考えられます。 橋の基礎部からは、多くの刀や矢が発見されました。壬申の乱のときのものも含まれています。 この刀は南北朝時代、14世紀のものです。

B2-1-3 古代琵琶湖の産物

古代の琵琶湖の豊かさは、朝廷や神社がその恵みを手に入れようと、特別な組織や施設を設けたことからもわかります。 魚は保存加工したものも納められました。


B2-2 湖上交通の発達

B2-2-1 輸送の主役 丸子船

丸子船は、江戸時代から戦前まで琵琶湖の湖上輸送の主役でした。 江戸時代中頃には1000隻をこえる丸子船が湖上を行き来していたという記録が残っていますが、いまはたった1隻しか浮かんでいません。 主に物資を運びましたが、人を運んだり、ときには漁船としてもつかわれました。 丸子船はおよそ7石から400石以上のものまで知られ、百石以上のものを大丸子(おおまるこ)、小さいものを小丸子(こまるこ)と呼びました。 この百石積みの丸子船は、1935(昭和10)年ごろの様式で、最も標準的な大きさでした。


【丸子船のできるまで】 展示の船は、現役で最後の木造船の船大工といわれる堅田の松井三四郎さんに息子さんとともにつくっていただいた実物です。 外からはみることができませんが、防水の役目をはたすため、船の板と板のあわせ目には槙縄というマキの木の皮を蒸してほぐしたものがつめられています。
1995(平成7)年3月に、堅田で進水したのち、湖上を実際に航行してこの博物館に収められました。 蔵を模した展示ケースのうしろには、この船を入れるための大きな扉が設けられています。
松井さんは1913(大正2)年の生まれ。戦前に数隻の丸子船をつくった経験があり、船釘も「いつかまた丸子をつくることがあるだろう」と長いあいだ、保管しておられました。 船大工の経験と技術が、船の仕上げや積み荷の量、船足(船の速さ)にまで影響を与えたようです。
>> 担当学芸員からのメッセージ

【大工道具と船釘】ツバノミ、スリノコ、カンナ、ノミ、チョンナなどの道具は、それぞれ用途によってさらにいくつかの種類にわかれます。 釘も琵琶湖の木造船のものは、幅がせまくて身が厚い独特のものです。槙縄は、船板の間に水の浸入を防ぐためのつめ物で、 サキヤリと呼ぶ竹を加工した道具と木槌でつめていきます。(写真は船釘)

【100年前ごろの丸子船】 現在の彦根市松原町にあった松原内湖の船着き場の丸子船です。 1905(明治38)年に撮影されたもので、何枚もの帆を張った珍しい写真です。 この船着き場も戦時中の内湖の干拓により、いまはもう面影がありません。

B2-2-2 湖上交通のうつりかわりと港町のにぎわい

江戸時代中ごろまで、琵琶湖は北国日本海沿岸から京や大坂へと運ばれる物資が とおる日本列島の大動脈の一部でした。 敦賀などでいったん陸揚げされて、湖北の塩津、海津、今津などへと運ばれた荷物は、 ふたたび船に積まれて、湖南の大津などまで運ばれて陸揚げされたので、 これらの港は古くからたいへんにぎわいました。

江戸時代中ごろには、約120の港におそらく6000隻以上の船があり、そのうち丸子船は約1000隻をこえていました。 これらの丸子船がコメをはじめとして干魚や塩魚、昆布、干鰯、紅花など北国の産物を運びました。
また、琵琶湖が最もせばまった、いわば喉元に位置する堅田は、 遅くとも平安時代から湖上交通の拠点となっており、湖上を自由に通行する権利や他の船に通行税を かける権利を獲得していきました。

a a 【豊臣秀吉朱印状と船印】豊臣秀吉は今の草津市芦浦にある観音寺の住職を船奉行に任命して水運を管理しました。 この朱印状は、安土桃山時代、1598(慶長3)年のものです。 船奉行によって登録された船には、船印(焼き印)が押されました。 この船印は、江戸時代、17世紀のものと考えられています。 今も残る芦浦観音寺は、中世の風情を残す立派な堀をめぐらせたお寺で、まるでお城のようです。

【浅野長吉制札】 豊臣秀吉は、大津に100艘の船をあつめて、これを保護しました。 これらを大津百艘船といいます。 この制札は、大津城主浅野長吉が大津百艘船を公用船として保護した定め書きで、 安土桃山時代、1587(天正15)年のものです。 これにより大津は、交通の拠点として商業を中心におおいに繁栄し、江戸時代には各大名の蔵屋敷が 湖岸にならんで、東海道筋では江戸・京につぐ都市となりました。

B2-3 琵琶湖のまつり

琵琶湖周辺には昔からさまざまな湖や水にまつわる祭りや行事が伝えられてきました。 それらは暮しに彩りを与えるだけでなく、人びとと自然の営みを改めて確認するための重要な行事でもありました。 こういった数多くの祭りの中から、特に湖や水になじみが深い6つの祭りの一部分を 三面マルチビジョンでご覧に入れます。

B2-4 収蔵庫をのぞいてみよう

博物館の収蔵庫で大切に保管している琵琶湖地域関連の古い文書や絵図などを順番に紹介しています。詳しくは【収蔵資料展示】のページをご覧ください。