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館長ショート対談

沖島の漁業の変遷など

-小川四良さんを訪ねて

小川四良(おがわしろう)氏
1920年滋賀県近江八幡市沖島町生まれ。
滋賀県漁業協同組合連合会理事、沖島漁業協同組合長など歴任。沖島町在住。


沖島の周りはもちろん、南湖でもまだたくさん獲れました。それに、内湖がどんどん失われたのもその頃ですね。(川那部浩哉)

何か残して置かんと、次の世代には話する人もあらへん

――小川さんは昨年『沖島に生きる』という本を書かれました。出版の動機などから、お聞かせ下さい。

小川■三十才の頃からずっと沖島漁業協同組合の専務理事をやってきましてね。いろんな体験をした。その要点だけはメモを取って来たんですわ。漁業組合長を退任した段階で、よし、これをまとめておこうと思ったんです。湖南の小学校三年生の児童が、当時秋になると社会の勉強に連れて来られておった。話をせいと言うのやが、子どもに話をするのは難しいですわ。何か手がかりでも残しておこうと、整理し始めたんです。
 それで、自費でガイドブックでも作ろうと、原稿を持って相談しましたら、「私とこで出版させて下さい」となって。「そんな大それたこと」と言うたんですけれど、五日ほど経ったら、正式に連絡が来まして。

川那部■私も読ませてもらったんですけど、こう言う記録を書いて下さって、ほんまに感謝してます。

現在の沖島港のようす。昔ほどではないが船がひしめき合う。
――――1997年5月21日(撮影/冨江公夫氏)

沖島にはもう石がない。他所へ出してしまいました

川那部■私は三十五〜六年前に初めて、沖島で泊めてもらいましたが、まず舟の多いのに驚きました。あの頃は動力はどうなってましたっけ。

小川■この島へ動力船の入ったのは早うて、大正の初めやったようです。小学校を卒業する頃には、もう多かった。沖島で石材を採取して、それを運搬してたためです。大きな丸子舟が三〜四十杯もあって、それを動力船で曳航して、方々へ持って行っていた。東海道線が全通したのが明治二十年で、その土手やらにも沖島の石が使われました。

――浜大津の埋め立て工事にも、ここの石が使われたそうですね。

小川■ええ。私も鳰(にほ)の浜の埋め立ての時に、手伝いで行ったことがあります。今の琵琶湖文化館からデパートのあるあたりはずっと、沖島の石で埋め立てはったんです。

――昭和三十四年頃でしたかしら。

小川■それが最後でした。ここの前の護岸に使う石まで足らんと言うくらい、他所にみんな持って行ってしもたのです。それで「石を外へ持ちだすのは、島の土を売ってしまうのと一緒やから、沖島は無くなってしまうじゃないか。この石材採取には問題あり」と言う声も挙がりました。この本にも書きましたけど。

シジミは無尽蔵に獲れたもんです

川那部■沖島の漁業もずいぶん変わってきたようですね。じかに関わってこられた小川さんの眼から見ると、いかがですか?

小川■兵隊から帰ってきた昭和二十一年頃、特に多かったのはシジミですね。ほんまに無尽蔵と言って良いくらい。特に四〜五月は、大きゅうて艶のある、それもあの黄色いセタシジミが、島の周り一帯の砂地で、面白いくらいなんぼでも獲れましてん。錨を下ろして、ロープを百メートルぐらい伸ばす。真鍬(まんが)のついた底曳き網を入れて、ロープを引いて舟ごと動かすわけですわ。殆どはむき身の煮シジミにして出しました。

川那部■シジミが減り始めたのは?

小川■昭和四十年ぐらいからで、四十年代の末にはとんと無くなりました。昭和の三十六―七年から、田んぼの排水がえらい濁って来たんです。それにPCPもありましたな。一般の市民も琵琶湖が濁ってきたのに気付かれましたが、一番初めに気がついたのは漁師です。

川那部■琵琶湖総合開発の調査で、私がセタシジミの資料を調べたのが、ちょうどその頃です。沖島の周りはもちろん、南湖でもまだたくさん獲れました。それに、内湖がどんどん失われたのもその頃ですね。

小川■そうです。大中の湖の干拓が完成するのも、昭和四十二年。それに農機具が近代化された時代です。湖岸線一帯が濁ってきて、この辺ではアユも殆ど寄り付かんようになりました。

アユとヒガイとエビと・・

川那部■そのアユを、追いさで漁で獲るのも、小川さんが始められたのでしたね。

小川■ええ。昭和二十六年です。それまでは小型の地曳き網でした。湖北の今西地区の人がやってきて、追いさで漁の手ほどきを受けたんです。

川那部■どの辺での操業ですか?

小川■伊崎の岩場から長命寺まで、それに沖島の周囲です。この漁には縄張りがあって他所へは行けんのですが、地先は押さえないかんと言うので、舟を増やして、最高七組作りました。水域を七つに分けまして、不公平にならんように、日替わりで順番に回る。ようけ獲れる場所とあまり獲れん場所がありますから。
 それから、小糸刺網でフナ・モロコ・カマツカ、それに底曳き網でモロコ・スゴ・ハス・イサザ・ゴリ・エビ、何でも獲ってました。とにかく、以前はどんな魚でも売れたんです。それが昭和五十年頃から、嗜好も変わってきて、鮒鮨にするニゴロブナとホンモロコが主になりました。
 ヒガイはシジミを砕いたのを餌にして、春と秋に筌(うえ)で獲るんです。京都まで活かして、酸素ボンベがあるわけやないし、桶の水を柄杓(ひしゃく)で掬っては上からざーっと落として、持って行ったんです。大嘗祭(だいじょうさい)のお供えのときやらは、ここのお宮さんの拝殿に注連縄(しめなわ)張って、漁師が白装束で烏帽子(えぼし)をかぶって、蒸焼きにしました。
 昭和五十年からしばらくは、スジエビです。海釣りブームが起こり、餌には琵琶湖のエビが一番と言うことになって。それまでは全然金にならなんだのに、いっときは村中がエビ漁ばっかりで生活してました。そしたら二百海里問題の結果、オキアミが入ってきて、食用のつもりやったのが餌としてばらまかれて。エビはそれで終りです。

――琵琶湖の代表的な漁法は、エリですが、沖島には近年までありませんでしたね。

小川■エリを始めたのは、昭和四十六年です。他の漁村には無い漁法を全部採用していましたから、エリをやらなくても充分に生活が成り立った。必要が無かったんです。

――沖島と堅田からは、歴史的にもエリの記録が出て来ないのです。

川那部■エリは、本当の漁師さんのものではないわけですか。

小川■漁船漁業の発達していないところが主ですね。

川那部■なるほど。

内湖の水質は、泥取りと藻取りで維持して来たんです

――真珠養殖のイケチョウガイにも、ブームがありましたね。

小川■そうです。昭和五十五年ぐらいが最後のピークでした。琵琶湖そのものではもう枯渇してまして、残されたのが西の湖やったんです。しかし、真珠の核を入れた母貝も、われわれが人工孵化させて作った母貝も、五十七年ぐらいには、水質が悪くなって全部死んでしまいました。

川那部■セタシジミもニゴロブナもビワヒガイも、このイケチョウガイも、みな琵琶湖の固有種ですね。ちょうど西の湖が出て来ましたが、最近は水郷めぐりでも有名ですね。どうしたら良いと思われます?

小川■まず水質。外湖への水の疎通と言うか、流れがないわけですよ。今度新しい閘門(こうもん)が出来て、余計にひどくなりました。これまでもヘドロの除去をやかましく言うて来たのですが、なかなか実現しない。

――昔は泥取りとかしてましたね。

小川■藻も取りました。「藻は舟一杯で千円、泥は簡単やから五百円」で、戦後、付近の人から買って、田にまいて耕したんです。特に藻を入れた年は、一俵か二俵余計に穫れた。内湖を掃除してたわけです。

船は島での生活の足、各家に船がある。おむつ洗いは船のあいだ。
――――1956年8月5日(撮影/前野隆資氏)

「魚のふるさと作り」をしてもらいたい

川那部■琵琶湖総合開発も、今年の三月で終了したわけですが、小川さんの眼から見ると、どんな問題があったとお考えですか。

小川■そうですね。やはり自然湖岸を破壊したことが一番でしょう。したがって緊急問題として、この復元に取り組んでもらいたいのです。

――石を取り続けて島が無くなる話をなさいましたが、魚はある程度までは獲り続けても無くならない。そこが一番大切なところですね。

小川■私はアユについては、比較的楽観しています。岸で真っ黒になることは、もう無いでしょうけど。産卵時期が、田んぼの耕耘される初夏ではなくて秋、まだ水の一番きれいな時期ですし。しかしこれも油断出来ません。昔の川に戻すことが、やはり大事です。

川那部■琵琶湖アユの性質が変わって来たとも、言われてますしね。

小川■大変なのはニゴロブナやモロコです。このような魚の場合、ふるさとが無くなってしまったんです。皆さんでもふるさとがあるから、連休やお盆や言うて、新幹線にもまれても帰られるんや。ふるさとが無かったら帰りますか? 帰れますか?

川那部■生まれ育った場所がね。産卵場所や子どもの成育場所が。

小川■「魚のふるさと作り」をしてもらいたい。例えばフナには、大中の湖と言うごっつい内湖があったんです。ヨシがあり、水草があった。切通(きりとおし)の細い川へ、黒くなって登りよった。なんぼ頑張りなさいと言うたって、今の状態では増えられません。

川那部■そのとおりですね。

小川■せめて堤防を切って、水を張れと言いたい。これは漁師の得手勝手やありません。自然に生まれ育って、自然に生活しとったんです。

――「いのちのみなもと」ですものね。今日は沖島へ伺って、長時間、面白いお話を有難うございました。

(進行・編集 総括学芸員 嘉田由紀子)


そうですね。やはり自然湖岸を破壊したことが一番でしょう。したがって緊急問題として、この復元に取り組んでもらいたいのです。
(小川四良)



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