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「館長対談」

<湖辺のむら>の資源利用
守山市赤野井町のくらし


2002年4月1日 赤野井自治会館にて
進行/橋本道範  写真/松田征也



琵琶湖博物館館長
川那部 浩哉
三品 巌さん 安井四加三さん 真田 昇さん
私は京都生まれの京都育ちですが、戦争中に田舎へ疎開して縄ないをして、草鞋作りもしました。 堀が縦横にあった。三艘も行き交うような。 麻縄は、昔から神事ごとに使っていたようですね。 藁もねぇ、百姓は大事にしたから。

祭は三十二年がひとまわり

橋本 真田さんと安井さんには先日、博物館の「はしかけさん」たちに対して、「ささら」作りの指導をして頂きました。でき上がったささらで、長刀祭のビデオにあわせて皆で演奏し、お子さんにも喜んで貰えました。

川那部 赤野井でのお祭は、一昨年拝見しましたが、太鼓に合わせていろいろな道中があり、ささらや笛の伴奏で、音頭が唄われますね。勇壮な長刀踊りもある。すばらしいものですね。

三品 祭の当番は八つのむらを回っています。音頭の文句も、そのむらそのむらで少しずつ違うんです。赤野井には八年に一度くるのですが、むらの中が分けられていて、太鼓打ちは順番に分担します。

安井 赤野井には、馬場・川端・西之辻・浜と、四在地があります。馬場の次は川端と、順番がまわります。赤野井は八年目にしかあたらんし、赤野井の中で四つが順番にやるので、三十二年経たんことには、その在地へは来ないというわけです。

川那部 三十二年というと、一世代ですね。ちょうどそれで伝承されるのかもしれませんね。それはそうと、小津神社のお祭をするのは、いつ頃から始まったのでしょうか。

安井 専念寺に、伊賀坊了誓という方の碑が立っていますが、そのお方が祭を、赤野井の宮さんまでひっぱったと、そう聞いてます。大きな扇子でもって招かれたんやそうです。

真田 それをかたどったのが、この鉾(写真)です。


長刀(なぎなた)祭で用いられる鉾(ほこ)

麻のさまざまな利用

橋本 鉾は、当番でない年でも赤野井で毎年作る決まりで、安井さんが実際になさるんだそうです。この鉾からぶら下げてあるものは、何の意味ですか。

安井 麻縄は、昔から神事ごとに使っていたようですね。今は、日本では作らしては貰えまへんが、戦時中まではずーっと作ってました。

川那部 麻は、幣帛や注連にも、良く使われて来ましたね。麻裃は、本格的な式服でしたし。

三品 麻をひいた後に胡麻を撒くから「麻・胡麻」というて、刈り取りは七月やなあ。天神川のへりに、藁や何かを敷いて、麻を持ってきて、どっぷり水をうって、むしろをかぶせて。ほんで、朝晩めくっては水かけて。こうして良う「ねよった」というところで、女子はんが剥かはるでんですわ。

真田 竹のへらで、こうやってしばいて。

三品 「蚊くすべ」いうて、まるめて蚊取線香の代わりみたいに、使いはったんです。

真田 牛が角屋にいたんで、蚊がすごいんですわ。夕方になると、「麻糞」いうて乾燥させたやつを団子にしてね、火をつけるんです。クスクスくすぶるんで、家中の蚊を追い出す。

安井 普通の縄やと、こう向けに綯いますわな。ところが、田舟の櫓を漕ぐのに使う早緒という麻縄は、左縄言うて逆に綯う。良うしまるんです。今はナイロンやらのいい縄があるさかい、そう必要もないけど、昔は貴重なもんでした。唐鋤やらを牛に引っ張らしますねえ。その紐やらも皆これでした。

真田 蚊帳とかやと、これを剥いで。ビービーいわして糸巻きして。

安井 帷子なんかも、麻の手織りでな。

真田 カタンカタンと、機織る器械が各家にあったんですわ。うちの母親もやってました。そんでにもう、麻やら大事にしました。

川那部 私は京都生まれの京都育ちですが、戦争中に田舎へ疎開して縄ないをして、草鞋作りもしました。私の作ったんは、すぐに緩んでグシャグシャになって、叱られましたけど。冬間の仕事でしたね。

安井 冬は、農家はほとんどがもう藁仕事でした、俵編んだり。雨具ゆうたら、「どうがい蓑」言いまして、藁でつくったのを着てました。

三品 今やったら、撮影所が欲しがるようなやつ(笑)。

真田 藁もねえ、百姓は大事にしたから。今はなんでも燃やしてしまうけど、昔は、燃やすというようなことはせんと、みな堆肥にしてたねえ。


いつも琵琶湖の掃除をしていた

安井 夏にはね、琵琶湖で「藻とり」しますわね。それを藁といっしょに積んで、堆肥にするんです。冬になると「ごみかき」もしました。赤野井でも浜の方は、湖を埋め立てたような田んぼでね。それを少しでも高くするために、上流から流れてきた泥を冬のあいだ田んぼの端に上げて、乾いたらまたそれを畚で担って、田んぼに撒くんです。肥料にもなるし、田んぼが少しでも高うなって、浸水する恐れが少なくなるようにするためにね。その泥を「ごみ」と呼んでました。

真田 昔は大きな堀が、むら中にみなありましたからねえ。五月になると、田んぼに水を入れるために堰をしますわね。そこへ水が流れてきて、ごみがたまってくれますわなあ、ひと夏は。秋に水がいらんようになって、堰を外すと泥だけ残る。それを上げるわけです。足らん分は、琵琶湖のそこらへんのごみを取りまわったりねえ。それが即、肥料になるわけですわ。

安井 冬はほとんど、琵琶湖につかってました。ヨシの葉っぱやらが、風でからまりますやろ。そういうのをたも網で揚げて。ムギ撒いたら、その横にやったりするんです。常時天候見てて、「今日は北風吹いたるし、あそこのヨシ場へ行こう。〈浜糞〉寄ってるやろなあ」、という具合です。

三品 藻でもそうでんな。カモやらが切って、浮きますやろ。風で寄るとこがありますねえ。「拾い藻」言うて、掬うと早いですわな。思うと、いつも琵琶湖の掃除してたんですなあ。

安井 木の枝やら何やらが流れてきたら、それも舟の舳先に載せて持って帰って、焚きもんにしました。放かしたままにしたちゅうものは、ちょっともなかったです、全部持ち帰って。


川も湖も死んで来ている

川那部 お祭には魚を供えられますか。

三品 コイをあげます。モロコの熟鮨も作ります。その前に塩切りというて、桶に漬けておきますのやけど。前の川でも、今日みたいな温い日やったら、川の底が見えんぐらい、真っ黒にモロコが上がってきました。学校から帰ったらすぐ裸足になって、手掴みするんです。足の裏へもコソコソ入ってくるくらい、ぎょうさんいました。
 それが今、琵琶湖におらんさかい、困ってますのや。赤野井は、和船が唯一の運搬手段でしたさかいに、堀が縦横にあった。三艘も行き交うような、入れば人の背が沈む、大きい深い堀があったんですよ。薄氷張っても、その下には魚がおった。今は何にもなし。鮒鮨のフナが減るのも当然ですわ。

安井 木浜から赤野井にかけて、水路が恐ろしいほどありましたでな。

三品 赤野井あたりも、土地改良して、新しい土地が出来てます。大きな堀埋めましたからね。そういう得をしたけど、そのしっぺ返しが洪水を招いたり、魚おらなんだりですわ。

安井 田んぼでも昔は、上からの水をせいて入れて、田んぼから次の田んぼに入れて、それが川に流れて。直接琵琶湖に流すということは、ぜんぜんなかったんです。けど今は、バルブ開けて自分の田に入れて、直接琵琶湖に流すようにされている。肥料だけ考えても、昔のほうが合理的ですわな。

三品 昔は,田植えになると「水入れさん」ゆうのを、各むらで決めてね。赤野井でも四〜五人はおられました。その人々が田のむらの方と相談して、三上山のあのへんから順番に、下へ下へ開けて、水を引いたものでした。

安井 川見ても、恐ろしいですわなあ。暑かったらすぐ裸で入ろうちゅう気持ちに、昔はなったけど、今は長靴履いたかて、入るの気持ち悪い。

真田 川が完全に死んでしまったんですね。どこの川見ても、水が流れずに淀んでますわ。昔は自然に湧いて出てて、一般家庭も湧き井戸が多かった。年がら年中タッタッタッタと流れて、川に入りよる。今は全然なしで、雨水だけ。流れる筈ないですわ。


赤野井のこれから、日本のこれから

橋本 今日は、昔の暮らしと最近の変化を聞かせて頂きました。次の世代にそれを引き継いで行くことについて、何かご意見がありますか。

三品 我々は、中学校へあがるかあがらん頃から親に仕込まれて、自然に百姓の仕事、畑にしても田舟にしても、覚えてきましたけど、今はそんな子はほとんどない。それをどうするかがいちばん大事やと思います。

川那部 日本中どこでもが抱えている、たいへん難しい問題ですね。しかし、一昨年拝見したお祭は、大人から子どもまでのすばらしい一体感で、感激しました。他所には、なかなかないことですものね。そういう伝承を拡げていくことができれば、次世代へ赤野井のくらしや琵琶湖とのつきあいかたを伝えることも、可能なのではないでしょうか。「うみんど」には残念ながら載らないのですが、あのお祭の音頭を、失礼ながらここで聞かせて頂けませんでしょうか。

三品 それでは、やってみましょう。(お三人で祭の歌合唱)

橋本 今日お伺いしたような、今のくらしがどのようにして出来上がってきたのかを、「中世のむら探検−近江の暮らしのルーツを求めて−」として、七月から博物館で特別展示致します。そのときにでもまた、今日のお話の続きがお伺いできればと思っています。どうも有難うございました。


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