Go Prev page Go Next page

館長対談

琵琶湖と丸子船


丸子船の復元作業にかかる松井三四郎さん。写真は船釘を打ち込んでいるところ

今度こんな機会があれば、私が作れるかなと…。
―――松井三四郎

頭にこびりついとるんですね。昔のことやから
―――松井三男

松井さんによって、丸子船は復元された

牧野■琵琶湖博物館のB展示室の中央にある、松井三四郎さんとご子息の三男さんの作られた丸子船は、ずっとたいへんな人気です。展示交流員にいろいろな質問も出す人もおられますし、感想を書いて下さるかたもたいへん多いのです。

松井■あれは、もう七年ほど前になりますかなあ。何度も来てくれはって、契約をしたのが暮の十二月やった。春になると、木が水吸い上げよって弱くなるので、お正月に木を伐ることになって、牧野さんやらにも山へ来てもろうたんでした。大原から二里あまり奥の安曇川上流の百井へ。雪の深い中で伐って、二月のかかりに山から下ろして来たんですわ。

 丸子船を作るときは、何よりも長い大きな木が要るんですわ。それも年の経った、中身の良う詰まった木がね。スギを縦に半分に切った「重木」が、丸子船には両脇についてる。これがまず大事なんですわ。これが小さかったら小さいで、「ふりかけ」を広うするとか、「敷幅」を拡げるとか、いろいろ考えんならん。つまり、「重木」が中心です。それに、良うひねた赤身の多い木を選ばんならんし。

川那部■木を選ぶところからだったのですか。たいへんなご苦労でしたね。それはそうと、松井さんが丸子船を前に作られたときから、どれぐらい経っていたのですか?

松井■六十五〜六年前、私が二十か二十一才ぐらいですわ。

牧野■丸子船作りの道具を、ずっと残しておられましたが、いつかこういう機会があるかも知れないと、思っておられたのですか。

松井■いや、こういうものを使うことは、二度とないやろうと思うてました。ただ、若いときから使うて来た道具やからと、大事に残しておいただけです。

川那部■丸子船は、たしか図面などは全くなかったのでしたね。失礼ながら、作りかたをちゃんと覚えておられた…。(笑)

松井■棟梁して、職人もようけ使うてたから、頭にこびりついとるんですね。昔のことやから、却って。それにやってると、少しずつ思い出して来るんです。

木の伐り出しから製作まで、多くの人々の働きがあった

牧野■それが私どもにはいちばん楽しかったことです。作りながら、「あ、ここはこうやった。あのときはこうやった」と、思い出しては話して下さったのです。

松井■前は、木から生まれたような人がいはりました。(笑) 「とんび」と呼ばれた人ですが、十二〜三才から材木屋の弟子でずっとやってきた人やからね。木の中まで判る。

 それにええ木でも、運ぶのがまたたいへんやから。自動車なんかなかったし、牛車や馬車に載せるしかしょうがない。ほんでに「木を買うなら出し(易いところの)を買え」と言うたもんですわ。「この木は安いなぁ」と、木だけの値段を勘定してては、あかんのです。(笑)

 昔は伐る時期も固う守らはりましてね。「竹の八月、木の九月」言うて、これは旧暦ですけど。木は新暦の九月までは、水を吸うていて弱いんです。虫も付くし。ほんで十月から十二月半ばまでは、皮が剥きよい。十一月の末になったら、昔は雪が降るでしょう。雪を利用して皮を剥いたのを滑らす。そうするとね、タッタッタと木が走る。最初の一本をあんばいよう滑らすと、そこが雪の溝になる。雪を利用して川の縁まで下ろしとく。私の頃はもう地下足袋がありましたし、みんなそれを履いて、「かんじき」履いて、雪の中を引っ張りました。

川那部■なるほどねえ。

松井■川が凍ててる冬は、流せへん。それに、便利のええ岸はちょっと高いとこですわ。低い岸やったらね、ちょっと水が出たら流れてしもうて、どこへ行ったか判らんようになる。雪解けやらを利用して、四月の末から五〜六月の雨のときに、下で待ってて貰うて、流しよる。伐採した木が、安曇川から朽木や葛川を流れて、みな河口の南船木に集まってくるのです。

 木には皆、山本なら山本、西田なら西田と、流した者のハンコがぽんぽんと押してある。それを目当てに集めてね。流した木の量で、拾い賃を請求するんですわ。

牧野■出しの親方」と呼ばれた人ですね。

松井■そうです。七〜八人で組合みたいなものをこしらえてね。それに、木で川が埋まりますよ。水のある間に流さんならんから、あっちからもこっちからもいっぺんに流しよる。

 それから、筏に組んで運ぶんですわ。歩けんところは竿で押すのやけれど、歩けるところは、そのほうが早い。白鬚神社の前でも砂場があって歩けたんです。七〜八人で一つの筏を、車を引くときに使う「連尺」言うもんつけて、縄で引っ張っぱりました。

牧野■船大工さんって、船をつくるところだけを知ってたら、それで良いような気がしていたのですけども。松井さんの場合、木を探すところか始めてずっと、詳しく知っておられますね。

松井■普通はそんなことありません。「これだけの木、なんぼの長さのもんを探してきてくれ」言うて、頼むのが普通でした。山で自分で買うと、安う買えるし、木も選べますし、そんなんで私は、いろいろな人に教わったんです。

(撮影:富江公夫)

丸子船作りの技術も、また伝わった

松井■丸子船も、私が堅田へ弟子入りした昔は、たくさんありました。この堀も港でした、何杯となしに帆を上げたり、櫓を押したりして、この沖も通りましたわ。米や燃料の柴や薪を積んでね。大津まで往復するのに、普通は朝早う出て、夜遅う帰ってくる。湖が荒れると、坂本や雄琴で泊ってきはりました。沖島にも、石を運ぶのに三〜四十杯はあったでしょう。

牧野■三男さんは今回、丸子船の手伝いをされて、どうでしたか。

松井(三)■丸子は初めてやし、寸法も何もわからへんから、全部聞きもってせんならんかったのです。砂やバラスを載せる大きい「土船」やらは作ってましたけれど。ふだんは鋼鉄船ですから。

川那部■それが今回の復元で、丸子船を作る技術もまた、継承されたわけですね。

松井(三)■父に教えてもらいながら、また図面も今回は特別にきちんと残してもらいましたんで、今度こんな機会があれば、私が作れるかなと…。

牧野■私も松井さんの、船を作りながらのお話しを聞いて、いろいろ考えて来ました。そして、復元の過程を文章と映像に、克明に記録して残すとともに、どうして丸子船が無くなってしまったのかについても、論文にまとめてみました。今まで言われてきたように、鉄道や道路が出来たからすたれたというような単純なものではなくて、どうも、木を伐るところから船を作り上げるまでの、人間関係全体が働かなくなったことにも、大きい原因があると考えています。 今の松井さんのお話にもありましたように、木材を選ぶ段階からそれらが船大工のもとへ運ばれるまでに、すでに様々なプロ達が関わっていたわけですよね。特に木を見るとんびと呼ばれる人達、彼らがいなくなったことで、丸子船作りに欠かせない巨木を探すこと自体が困難になってしまったわけです。 松井さんはそのような状況の中で自転車をこいで山を探してまわり、自力で適当な木を見つけようと努力されました。しかし、結局は材料を簡単に入手できる鋼船へと作る船を変えられた。そんなことが、丸子船が失われるきっかけの一つとなったのではないかと考えています。こんなことを考えるようになったのも、松井さんがご自分で船作りのあらゆるプロセスを経験しておられたからですけど。

 松井さんのお話は、書き残されない歴史の重要さを改めて感じるものでした。また、そうした書き残されない歴史は、今現在も展示室の丸子船をご覧になられた来館者の皆様から次々と寄せられつつあります。とても重要な機会を松井さんは与えてくださったと思います。

松井■いや、こうして展示してもろうて、私も幸せです。

川那部■二代にわたる松井さんのご努力のおかげで、丸子船についていろいろなことが明らかになり、未来への道も少し開けてきたわけですね。一九九五年の三月でしたっけ、私自身もこの丸子船の進水式に参加させてもらいまして、そのあと堅田から烏丸半島まで、琵琶湖を横断して帆走するのも、岸からしばらく眺めていました。

 今日は、貴重なお話を聞かせて頂いて有難うございました。併せて、お二人の丸子船新造のご努力に対しても、改めて深い感謝の意を表したいと思います。


復元され、帆走する丸子船(撮影:牧野久実)

とても重要な機会を与えてくださった
―――牧野久実

たしか図面などは全くなかったのでしたね
―――川那部浩哉

-2-

Go Prev page Go Prev page Go Next page