マッピーの考古学日記
diary of Archaeological matters

ここではマッピーの考古学的な話題を「人とのつながり」に焦点を当て、日 記形式で記しています。わかりやすくするために所属や職名を意識して入れ、かつ実名を本人の了解なく紹介しています。ごめりんこ。
 
2010年
12月21日(火)
中国から帰った翌日から、おなかは痛くないものの下痢が10日間続き、昨日ぐらいから何となく回復。中国では元気だったのに、日本の水と空気が会わないかも・・・。
昨日、大学の先輩である大阪の藤田憲司さんから『山陰弥生墳丘墓の研究』と題した大著を拝受する。熊本大学への学位請求論文がもとになっていると推察されるが、王道を歩みながらわかりやすい構成と展開、近藤・都出理論への傾倒や批判など、いかにも同窓生らしい。
できるだけ安価な本にしたかったので刊行が遅れたと手紙に書かれていたが、学位本の値段では、まだ私の本の方が安いと、ひそかににんまり。
それにつけても、春成先生が言うように、同窓生が誰一人母校で学位をとらないという伝統は続く。

12月14日(火)
先週の土曜日午後に、旭川市博物館副館長瀬川拓郎さんの講演を聴く特別研究セミナーを開催。特別研究員の植田文雄さんとのエリとヤナをめぐる対談なども実施した。
瀬川さんの発表は、地に足がつきながら北東アジア世界を見渡すお話で、わかりやすいものだった。かつて吉田晶先生は、「本当によくわかっている人の話はやさしい」という意味のことをおっしゃっていたが、その通りだと思う。

聴衆の中には、もっとお話を聞きたかったという人もいた。本人いわく「B級考古学研究者」、用田いわく「二流国立大学出身」ながら、やっぱ話の内容は一級品だと思う。その夜は、植田さん特製のフナズシを食していただき、翌日は琵琶湖ツアーへ。
「二流・・・」出身で用田の同級生友久伸子さんらも加わり、城と博物館まわり。彦根城ではひこにゃんにもであうなど、ラッキーなエクスカーションであった。

そして今日は、シンガポール経営大学で社会学を教えるチャン先生をお招きしての特別研究セミナー。「中国農業の現状と課題」というテーマによる英語のレクチャー。最後には、私も下手な英語で質問したりして何とか終了。

12月11日(土)
先週末から中国へ太湖の民俗調査に出向く。南京、蘇州、無錫、上海とまわり、南京河海大学の朱偉先生にはほとんどおつきあいいただいた。ホテル・汽車・車の手配やらもすべてしていただくなどお世話になりっぱなし。また、大学や行政関係者との食事の機会もたくさん作っていただく。しかし、その飲み過ぎ・食べ過ぎのせいか、9日深夜に帰宅した翌朝から下痢が続き、昨日はスープと味噌汁で過ごす。同行した楊平さんも疲れからか発熱でお休み。
下は、無錫市郊外、太湖北岸の呉の都であったといわれる「こうりょ」城(字は写真の石碑参照)。これから2億元をかけて博物館などを整備するとか。

本日、旭川市博物館の瀬川拓郎さんをお招きしての特別研究セミナーを開催する。昼の部も夜の部も楽しみではあるが、おなかがやや不安でもある。

12月2日(木)
『生活文化史』第58号に、楊平さんとの共著論文「名水百選認定と農村水環境の歴史的保全」が掲載され、抜刷が届く。今までのどの考古学に関する論文よりも厳しい査読意見がついたものの、まじめに対応し載ることになった。

11月16日(火)
先週末、民博で開かれている「アジアの境界を越えて」と大阪歴史博物館の「水都大阪と淀川」という企画展を見に行く。
前者は、立派な企画展示図録、および企画委員メンバーにひかれて出かけたが、展示は規模も内容も今ひとつ。後者は、多くの絵図と写真を活用した見応えのある展示で、見学している市民の関心も高かった。琵琶湖まで含んで相対的に淀川をとらえることの必要性を感じた。
昨日は、展示交流員と共に大津市田上の狛坂磨崖仏とオランダ堰堤を見学に出かけ、中腹の狛坂寺跡に着いたとたん、自宅から「老母が肺炎で入院することになりすぐに帰れ」と、とぎれとぎれの電話。山岳寺院から山伏あるいは千日回峰行者のごとく飛んで走って山を降りる。2時間で彦根の病院へ。おかげで今日は足が痛い。

11月10日(水)
先週末は伊勢へ。イスラエルの発掘でご一緒していた中野晴生さんと会う。
職場からは2時間。かつては近畿地方からは遠い地の果てだと思ったのに。帰りは、日曜日早朝だったため、1時間半で職場に出勤。誰もいない事務室で、朝の7時半から仕事に。しかしそのがんばりがたたって、月曜日には家中みんな風邪をひいてしまい、90歳の老母の看病で火曜日は仕事を休むことになる。

11月2日(火)
先週末、土曜日の夜行バスで埼玉県の川越へ行き、日本民具学会の大会に参加。川越の伝統的な蔵造りの町並み見学ついでに吉見百穴と埼玉古墳群を一人で歩く。
吉見百穴は、「ひゃっけつ」ではなく「ひゃくあな」と地元では呼び、先の戦争中に築かれた地下軍需工場の洞窟ともども残されていることにびっくり。

埼玉古墳群は、意地になってすべての古墳をまわる。先日、円墳としては列島で3番目の規模を誇る茶すり山古墳の企画展示を兵庫県で見たが、最大の円墳・丸墓山古墳とは投入労働量が格段に劣ることに驚く。裾からはピラミッドのようにも見えた丸墓山では、南からの「掘割墓道」が何となく観察でき、他の前方後円墳の前方部取り付き方向と同じことに気がつく。しかしながらどの墳丘斜面もかなり急峻で、近藤先生の言葉を借りると「至難」か「不可能」に近く、「長い棺を担いで上がっても、これは転ぶで・・・」とまた独り言。
今更ながら、百数十年間にわたって築いた首長墓群は、前方後円墳の場合はその主軸を同じくし、同じような形の2重の周濠と造出を備えるなど、実物は、当たり前のようなことを眼の前でシンプルに語ってくれることに感心する。
昨年、南九州の志布志湾を望む横瀬古墳や周辺の古墳群を歩いた時と同じような雰囲気を関東平野のど真ん中で感じることで、これも今更ながら倭王権の力の及んだ範囲を実感。帰りぎわ、古墳群の隣接地に行田市の斎場を見つけた。

10月29日(金)
今日は田中琢さんから電話。その2時間後、「昨日、中国・瀋陽から帰ってきたよ・・・」と春成先生から電話。
もう一人ぐらい、考古学者からかかってきてたら、「偉大な考古学者から連絡のある日」と定義づけられるような、高い確率論的な位置づけができたのに・・・とわかったようなわからんようなことを考える。

10月26日(火)
川那部浩哉前館長が、フランス共和国政府より「レジオン・ド・ヌール勲章」に叙され、受章式が
東京・南麻布にあるフランス大使館・大使公邸であった。
日仏友好事業の委員だった私もその末席に参加し、かつて大使館参事官だったアルマンさんやパリ国立自然史博物館外交部長のネシャッドさんもフランスからお見えになり、久しぶりにお会いする。
何よりも印象的だったのは、公邸の中庭は木々に囲まれ、まわりの広尾界隈のビルが全く見えなかったことと、少しいただいたワインのおいしかったこと。
「よくわからんけど10万はするんやろなあ」と独り言。帰りは、何の用もないのに羽田空港国際線ロビー見学という、考古学とは何の関係もない東京日帰り秋の旅。


10月23日(土)
今朝の中日新聞コラムでは、日米安保改定50年をきっかけにして安土瓢箪山古墳について触れてみた。「今の知事クラスの人が葬られた墓である・・・」と書いた記事を昼前に事務室の自席でうつむいて読んでいたら、「用田さん、こんにちは。朝刊の記事読んだわよ・・・」と女性の声が。顔を上げると、COP10関連行事で来ていた今の知事。思わず「すみませんでした・・・」と訳もなくあやまる。

10月21日(木)
北海道の瀬川拓郎さんを招いての科研費研究会を12月に開催する予定。その準備を始めようとしていたら、今年度分の科学研究費の追加内定通知が来たりして、責任者として一気にバタバタとなる。「今ごろからどうせいちゅうねん・・・」というほど満額がついて・・・。「人のやからいいけど、僕のやったらおこるでぇー」という感じ。
瀬川さんの略歴・紹介を書くため、2冊の本といくつかの記事や雑誌を取り出し斜め読み。それで今日も陽が暮れそう。

10月19日(火)
共著論文が『生活文化史』に載ることになり、最終校正。毎日新聞連載コラム『ここだけの琵琶湖の話』シリーズの第一話も14日付けの朝刊に掲載。また、交通遺児援護団体の機関誌『おりづる』にも『琵琶湖水中雑談』が掲載され、『民具研究』最新号には昨年の公開シンポジウム記録も掲載される。
先週末に行われた日本考古学協会の研究分科会に参加した際、『日本考古学』の最新号をもらったが、林博通さんによる拙著の書評が載っていた。研究発表の最中にこわごわ頁を開くが、さほど批判的ではなく、また著者をおきざりにして書くでもなく、ごもっともと納得。掲載のご推薦をいただいた茂木雅博先生の後ろ姿にもお礼する。
これで、僕が出した単著の三冊は、すべて学術雑誌に書評を載せていただいたことになる。ありがたいことでした。
兵庫県立考古博物館では、大会スタッフをしており大学の同級生であった友久伸子さんにお弁当を買っていただき、同じ同級生の山本悦世教授と3人で中庭にて弁当を広げる。30数年の時を超えた至福の時であった。
分科会では、10年ぶりに宇土市の高木恭二さんにもお会いし、ご挨拶申し上げる。こちらも30年以上前に向野田古墳の報告書をいただいて依頼のおつきあいで、いつもまじめなお人柄・学風を尊敬している。
今週末には青銅器を追って中国・瀋陽にでかけるという元気な春成秀爾先生と電車で別れ、友久さんと神戸・元町でベルギービール。最中に、旭川市博物館副館長瀬川拓郎さんに電話し、友久さんと二人して先輩口調でしゃべる。プチ鬱が治ったような一日であった。

10月1日(金)
国立歴史民俗博物館の広瀬和雄さんから岩波新書『前方後円墳の世界』を拝受。
既に本屋で買っていたものの、それは車の後部座席に置いたままになっていたので、あわててもらったほうを斜め読みして、買った方は図書室へ。「はじめに」には、僕が1999年に出した小著の序文と同じ趣旨のことが書かれてあり勝手に満足する。
先日の話に出てきた金関先生は、1992年に広瀬さんを交えて大阪の弥生文化博物館でお出会いしたことを思い出す。1カ月後にイスラエルへ発掘見学に行くご挨拶に伺った時のことである。その時、吉田晶先生もたまたま来ておられ、4人で喫茶店へ行き、僕は横で話を聞いていただけだったこともついでに思い出した。広瀬さんは、朝鮮半島からの鉄資源の見返りは、人(奴婢)だったと力説していた。

9月25日(土)
秋の関西ワンデイパスで大阪から奈良へまわり、天理参考館へ。
80歳を超えてもすこぶるお元気な金関恕先生のお姿を拝見し、逆に元気を頂き帰ってくる。考古学のみならず広く造詣の深い2世紀から4世紀にかけての東アジア情勢のお話とともに東大寺山古墳の企画展も見学できた。400人近い聴衆で、僕も講演開始一時間前から列に並ぶ。そして待ち時間に、企画展図録をなめるように読み込む。
展示では、鉄刀銘もさることながら、東大寺山古墳は、最近、原稿を書いている若宮山古墳とほぼ同じ時期なので、埴輪をガラス越しで観察することができ、山隣の前方後円墳・赤土山古墳のものも展示されていて参考になった。
特に最下段の円形透かしや半円形透かし、一つの埴輪の長方形透かしと円形透かしの混在の具合など、完形実物で確認できてタイミングも良かった。
講演会では、普段はイスラエルでしか会わない天理参考館の山内さんや日野さんにお目にかかる。


9月24日(金)
明日は、天理大学参考館で行われている東大寺山古墳の企画展と金関恕先生の講演を聴きに行くことに。近藤義郎先生の最晩年、大阪の弥生文化博物館で近藤先生を横でしっかり支えて写真に収まっていた金関先生を思い出す。
1992年にはじめてイスラエルに行ったとき、何が何だかわからないまま日本を発って24時間後の早朝についた発掘現場で、金関先生には親切に案内していただいた。あれは僕が近藤先生の教え子だったからだと思いこんでいる。それほど先輩・後輩関係を大事にされていらっしゃるのだと理解している。あれから20年近く経った。
もうお会いするのも最後のつもりで出かけようと思う。

9月11日(土)
先般借りた本を斜め眺めした結果、
『長江水利史』『長江流域』『清代内河水運史の研究』『世界の水田・日本の水田』は買うことにし、さっそく「日本の古本屋」で検索・注文。便利な世の中になったものだと思いつつ、大量の本はどんどん処分していこうと思っているのに、それに逆行して・・・。
昨夜、博物館特別研究員の植田文雄さんと久しぶりに焼酎を飲みながら、報告書などの整理・処分の方法について話をする。なかなか大変らしい。当方も、『瓜生堂』『紫雲出』『陶邑』『勝部』『月の輪』や、昔の『猿投』なんか全部揃っているとしばし自慢。なかなか捨てることはできそうにない。
北海道のキウス、錦町5遺跡、紅葉山49号?見学記などの話を聞かせてもらい、旭川市博物館副館長の瀬川拓郎博士に電話して、世話になったお礼を述べる。

9月9日(木)
ここに発掘現場見学記を書くと、未公開だのどうのという横やりがすぐ入るが、一昨日の休みを利用して、前々から見学に行こうと思っていた清滝の寺跡調査現場を見学。滋賀県文化財保護協会の伊庭功さんに丁寧に案内・説明していただく。
25年ほど前に、同じ境内といってもいいようなところを掘っていたので、思い出も昨日のようによみがえる。中世山岳寺院と近世寺院の構造的関係が、逆によくわからなくなってしまったが、久しぶりに遺跡見学ができた喜びに浸る。現場へのおみやげには、スパークリングスポーツドリンクとコロッケ。
今日は、図書館で10冊本を借りる。名前だけ列挙すると、『水辺から都市を読む』『長江水利史』『長江流域』『清代の水利と地域社会』『中国の水郷都市』『清代内河水運史の研究』『世界の灌漑』『世界の運河めぐり』『中国の農業水利』『世界の水田・日本の水田』。

8月31日(火)
先週の土曜日に、博物館で「湖底遺跡探検」と題したシンポジウムを行い、全体進行やパネルディスカッションの司会をするなど大忙しだったが、100人を超える方に来ていただき、まずは安心。県立大学の林博通さんをはじめ、地質工学の京都大学防災研究所釜井先生・大阪市立大学原口先生にはお世話になった。

また今日は、滋賀県埋蔵文化財センターで行われている夏の企画展示最終日だったので、夕方に大あわてで出かけて見学。あわせて事務局次長葛野常満さんとしばし考古学議論。
ニュースによると、イスラエルの洞窟遺跡でヘブライ大学とコネチカット大学の調査団が、12000年前の葬送に伴う飲食儀礼の跡を発見し、大量の亀の甲羅が発見と伝えられた。縄文時代中期の粟津貝塚でも大きなスッポンの甲羅が発見され、米原市入江内湖遺跡では前期のも見つかっていることから、昔から洋の東西を問わず、亀のたぐいはうまかったのか・・。イスラエルは西洋かどうかは微妙だけど。エルサレムにあるヘブライ大学は、聖書の記述を裏づけていくような考古学の学風と聞いていたが、そうでもない人類史もやっているんだとあらためて知る。

8月26日(木)
石平『私はなぜ「中国」を捨てたのか』を読む。
中国批判はともかく、日本の天皇制を考えるのには参考になった。また、デュルケームの「社会儀礼論」についても知ることができた。思わぬところで考古学の一助になるような一文にであう。
昨日の夜、満月に近いなーと空を見上げ、イスラエルでもゴランあたりではきっときれいに見えるだろうなと思っていたら、イスラエルで発掘中の写真家・中野晴生さんのブログに、満月のくだりがでてきていてびっくり。もうすぐお帰りだとか。
先日、イスラエルのキブツ・エンゲブに住むゲシアばあちゃんから、鎌倉女子大・牧野久実さん経由でナツメヤシをもらう。エンゲブのトレードマークもその味も懐かしく、ゲシアが生きている間にまた会いたいと思う。

8月19日(木)
数日かかって、通勤中に『樺美智子 聖少女伝説』を読む。
30年前から抱いていた樺美智子のイメージが大きく変わったが、それはともかく、彼女のレポート「前期古墳の葬制を通じてみられる当代の死者に対する観念」を、当時、坂本太郎教授は評価していたという。その内容は読んだことがあり、安土瓢箪山古墳などもその中で取り上げられていたが、古墳の研究者のはしくれとなった今読んでみると、特にどうということないよなという内容。それより、当時、東大におられた古代史の青木和夫先生は、偉い人だったということがよくわかった。青木先生の業績を読んでみたいと思うようになった。

8月17日(火)
社会学者楊平さんとの共著になる「水環境の歴史的保全を社会学から考える−泉神社湧水−」が載った『佐加太』第32号が送られてきた。米原市の高橋順之さんには、調査時から掲載までお世話になった。
一昨年から、少しずつ調査を始めた成果の一部であるが、とにかく形に残せて、また地元の人に読んでいただける機会ができて嬉しい。

8月10日(火)
昨日、中国から帰る。長江下流域のいくつか見た水郷都市の中で、朱家角がいちばん観光地として生活と一体となっているような気がしたが、その分、店屋の呼び込みもすごい。

上海博物館も今回で3回目だが、入館するのに一時間待ち。中に入ったら、ロシア王朝の企画展示にまた並ぶといった具合。とにかくゆっくり遺物を観察するという雰囲気ではなかった。上海でいちばん大きな本屋、上海書城に寄ったが、ここの考古学や博物館に関する本は充実していた。

8月4日(水)
生活文化史学会の雑誌に投稿した原稿が査読後、条件付き掲載で戻されてきて、その手直しを2日間連続で座っている質問コーナーでやっている。
査読意見は納得できるところが多々あるものの、後々も使える基礎的データの積み上げと現象論的な整理だけしておこうと地味にまとめる。あとは共著者の了解を経て出すだけとなった。
明日から上海万博にでかけ、ついでに近くの朱家角も訪ねてみる。

7月29日(木)
研究部の責任者として科研費の獲得には努力したつもりでいたが、今年度、全国の公立博物館の中で、ついに琵琶湖博物館が北海道開拓記念館を抜いて採択件数・金額ともにトップになった。
申請を促し(強制)、申請書を精査して再提出(差し戻し)を繰り返すなどした結果であるが、採択には特別研究員のものも含まれており、手放しでは喜べない。。

7月7日(水)
梅棹忠夫先生が亡くなられたというニュースが伝わる。20年近く前、同僚だった嘉田由紀子さんとともに民博の館長室ではじめてお目にかかる。目がご不自由であったが、名刺を受け取っていただく。その後、何回か民博の職員食堂でお見かけする。いつも同じ場所でビールを飲んでいらっしゃった。
先生のお父様が旧西浅井町の菅浦出身だということを、菅浦の阿弥陀寺住職秋山富雄さんからお聞きしたことがある。秋山さんは、そのことを誇りに思っていらっしゃった。
6月の研究報告会が終わったと思ったら、8月前半締め切りの来年度総合研究・共同研究計画書の提出の段取りを行う。それを点検して審査委員への送付、そして9月研究審査会が終わればすぐに10月にむけて来年度科研費申請の準備作業。そもそもいつ研究するのやら。

6月29日(火)
先日、久しぶりに大阪の秋山浩三さんから手紙。いくつかの論文が同封され、通勤途中の電車で読むが、相変わらず手堅く感心。
自分はというと、もう歴史評論から足を洗って、後世に残る着実な資料の集積と整理をベースにした勉強にシフトしなくてはと自省。
先日の研究報告会では、外部の研究審査委員の前で近江の前方後円墳研究の成果を20分ほど話すが、出てくる意見は素人発想と日本列島での位置づけを求めるものなど、歴史評論を超えた歴史小説のようなことが多く・・・。

6月18日(金)
昨日、中国・無錫から帰国。
蘇州博物館、蘇州民俗博物館、呉江市博物館、無錫市博物館、古窯祉博物館のほか同里、名月湾古村、陸港古村などの水郷・太湖湖岸集落や宝帯橋、それに巨大な土敦(土偏がつく)墓・鴻山遺跡や長江流域最古の水田跡という草鞋山遺跡を歩く。途中、太湖で船に乗るやら、家船・エリなどの調査も行う。
これで長江流域は、上流の宝敦(土偏がつく)遺跡・三星堆遺跡、中流の城頭山遺跡・馬王堆漢墓、下流の璃山・反山・莫角山、河姆渡遺跡など主だったところは踏破したように思う。
2週間ほど前、日本で無錫市副市長など市の幹部の人たち10人のお相手をしたが、その人口500万や600万人をこえる太湖沿岸・蘇州、無錫の巨大都市を歩きまわり、足だけは丈夫になった。あの中国の要人たちは、琵琶湖のまわりが大変な田舎に見えたに違いない。
(草鞋山遺跡)

6月11日(金)
琵琶湖博物館の本質を問うようなことを含む3つの会議の合間に、JICA研修生への英語での「琵琶湖博物館における研究」というテーマの講義。ただし、冒頭のの3分ほど。あとは流ちょうな日本語で行う。
明日から、中国・無錫、蘇州への科研費による太湖調査に出かける。万博で混雑する上海を避けて、関空から無錫への深セン航空直行便を利用する。

6月4日(木)
韓国・釜山に計画中の国立海洋博物館のスタッフ李さんから連絡。6月半ばに琵琶湖博物館を訪ねたいとのこと。あいにくその時は中国江蘇省の太湖に出かけている時なので、同僚の高橋啓一さんにお相手をお願いする。是非とも会いたかったが残念。早速に東アジア同胞への貢献機会を逸する。

5月27日(木)
今週に入ってから、かつてあるいた琵琶湖の周辺を再び歩く旅をはじめる。草津市志那の閘門も10数年ぶり。木製の扉はなくなってしまい、取り付け金具とそれを支えるコンクリートだけ残る。帰ってから、昔に撮った写真を探しててみると、出てきた。すばらしい写真が。
志那中の港跡も昔の切符売り場の建物は残るものの、護岸に新しい石積みがかぶり、琵琶湖からの水路も大半は埋め立てられていた。こちらも昔の写真を探すと、すぐに出てきた。自分の記録癖と整理癖に感心した。

5月26日(水)
先週の金・土曜日は、中国・無錫市副市長や去年お世話になった太湖調査の関係者にお目にかかる。今日のお昼は、韓国出身の友人・セヒさんと歓談。両者からアジアのパワーをもらう。残りの人生、東アジア同胞に少しでも貢献できるような研究や生き方がしてみたい。
昨日は、彦根市の中村商家保存館をはじめて訪ねる。父が小学校を卒業した大正7年に丁稚奉公に入り、最後は番頭をしていた酒屋で、「彦根二番」という電話番号を持っていたお屋敷が公開されている。2階の使用人部屋で「用田作松」と墨書の入った木箱を見つけ、思わず「あっ」と声が。

父が、昭和11年に写真を撮った屋敷前で、同じアングルで自分の写真を撮ってもらう。75年の時を経て、親子が同じ場
所で写真にうつる。
 
5月20日(木)
久しぶりに植田文雄さんと会う。先日の諏訪大社の柱立て「建御柱」の先端、モミの木くずをいただく。神事の見学者はこぞってこれを手に入れようとするとか。
この夏、彼は北海道へヤナの調査に行くので、旭川の瀬川拓郎さんにぜひ電話してくれと言うので連絡する。

5月19日(水)
今日から理由があって「である調」にする。
先日の休みに早朝から、今年90歳になる老母と彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)の見学に出かける。特別公開の最終日で、広い庭に「汐」入形式の池と水路、洲浜・築山、石灯籠、それに四つの土蔵、かつては船屋形、神社や田まであったとか。未整備の庭の味わいに感動。小学生の時、同じ敷地内にかつては彦根市の児童館があり、児童合唱団に入っていた私は、毎週、ここに通っていたが、立派な庭のことは全く知らず。
また表札は、井伊直弼のひ孫で、10期近く彦根市長をしていた井伊直愛さんの名前のまま。これにも驚く。

5月17日(月)
先般からこのブログも絡む理不尽なことがあって、春成秀爾先生と連絡をとっていたのですが、先生には好意的に理解していただいて感謝してます。そんな中、土器に記された龍の絵についても、こちらは忘れてしまっていたのですが、草津市柳遺跡例の出典を問われ、大急ぎで調べる始末。教えられ、新たな動機づけをいただいてばっかりです。
民俗学者橋本鉄男先生の蔵書にあった森本六爾の「日本農耕文化の起源」初版本を見ていたら、和島誠一先生が1946年11月6日付け「日本読書」に寄せられた書評の切り抜きが挟まっていました。こんなのだれも見たことないやろ、知らんやろと、しばし優越感にひたりました。

5月7日(金)
去る4日に、かつての野洲川主流である堺川(境川)の河口部から上流に向かって川沿いを、守山駅まで約10km、3時間かけて歩きました。今は小さなこの川が、かつての栗太郡と野洲郡の境であり、条里も異なるため、境川をはさんで道もずれているところがあります。古墳時代初めは、ともに近江の独自性を誇っており、近江の中心勢力であった両郡は、5世紀後半を境に野洲郡は畿内中枢に迎合し、栗太郡のみ最後まで「近江」を貫きました。そのことは、近江国庁が栗太郡におかれたことと無関係でないと2007年本で説いたところです。
歩いた成果の一部は、翌日に中日新聞コラム原稿として書きましたが、前日までの疲れと、当日は炎天下であったためかさらに疲れて風邪をひいてしまいました。

5月4日(火)
昨日までの3日間、九州の博物館と城跡・古墳をまわってました。玉名市立歴史博物館、佐敷城跡、国越古墳、向野田古墳を訪ねましたが、天神山古墳など宇土半島基部のいくつかの古墳は、現地で探すも見つけられず。向野田古墳なども30年前とはずいぶん様相が変わってました。

4月14日(水)
今年度の文科省・学術振興会の科学研究費採択状況が昨日までにようやく明らかになりました。博物館では新規に20件申請して基盤研究(B)2件を含む7件採択。申請にあたっては、研究部長として全員の書類を相当念入りにチェックしたかいがありました。
継続も含めると15件になり、都道府県立博物館の中ではトップクラスになったと思います。
ただ、経理を担当する総務課が泣いてました。

4月1日(木)
今、琵琶湖の英文論文集編集にかかっており、日本歴史の論文を英訳する難しさを感じています。元号はほとんどカット。史料を引用していてもカット。細かな地名もカットし、特殊な用語はやさしく言い直すのがこれまた難しい。戦国大名と守護大名をどういい分けるかなど難題だらけ。10数人から集めた日本語原稿を手直しして、できた英訳をまたチェック。
配席表・事務分掌・動向表などを作る合間にこんなことをやっています。

3月11日(木)
イスラエル・ガリラヤ湖周辺の歴史を研究して、多くの業績をもつメンデル・ヌン氏が92歳で亡くなられたと、鎌倉女子大の牧野久実さんからお知らせが。
最初にイスラエルを訪ねた1992年夏、キブツ・エンゲブにあるエンゲブ遺跡でお会いし、いくつもの著作を頂きました。また、後にはご自宅にも2・3度ご招待いただきました。
1995年には、奥様のゲシアさんと琵琶湖にも来ていただき、あちこちご案内したことを思い出します。何にでも興味を持って見入る研究者で、琵琶湖博物館にもたくさんの貴重な資料を寄贈していただきました。
1999年か2001年かは忘れましたが、民俗資料としてガリラヤ湖の投網をいただきました。ただ、網にはたくさんの鉛の重りがついており、イスラエル出国の時のセキュリティーチェックでずいぶん難儀したことを思い出しました。
会話は、余りに冗談が多い聞き取りにくい英語で、娘さんがいるときはニューヨーク仕込の英語に通訳してもらってました。私が読めないとわかっていながらもサイン入りのヘブライ語の著書もいただいたことがあります。
ご冥福をお祈りするメッセージを同じキブツの研究者ヨエルさんに送りました。

ガリラヤ湖漁労博物館(キブツ・エンゲブ)にて(1999)

3月6日(土)
山折先生の本を読んでいて、古代天皇家における即位儀礼を考える上で、チベット・ポタラ宮での王の遺体と霊位のありようは参考になるかと思い、さっそく大阪歴史博物館で開催中の『聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝』にでかける。
チベット仏教の仏像・仏具が中心であったが、ポタラ宮が7世紀ぐらいまで遡り、本来的には寺院であることがよくわかりました。久しぶりに「五体投地」もビデオで見て感動。
今日はまた、新琵琶湖学専門セミナーの司会進行。長浜城歴史博物館の太田浩司さんと安土城郭調査研究所にいた伊庭功さんによる佐和山城・彦根城と観音寺城・安土城のご講演です。これらも来週で最終回。最後は、僕と3月末で定年退職を迎える中島経夫さんの巻です。

3月2日(火)
先月に買って使用3日目のブーツが、昨日、奥伊吹スキー場で壊れ、午後から修理に持って行く。日本のラングをめざすメーカーなのにがっくり。その帰りに気を取り直して京都の本屋へ。そこで山折哲雄先生の『天皇の宮中祭祀と日本人』を購入。帰りの電車で読みふける。落ち込んでいたけど、いい本に巡り会えて良かった。
去年、講演をお願いして食事もおつきあいいただいた山折先生の気さくな人柄を思い出す。講演の中で、インド・ガンジス川の水の缶詰やイスラエル・エルサレムに行かれた話をされていました。僕もガンジス川の水を持ち帰り、エルサレムには何回も行きましたなどと宴席で自慢げに話をしてましたが、天皇家の即位儀礼の話なども、事前に勉強して聞いておけば良かったとちょっと後悔。

2月26日(金)
昨日、北海道巡検の旅から深夜に帰宅。羽田空港の霧の影響を受けてフライトは乱れたのですが、何とか神戸行きに乗れました。機中で『日本辺境論』を読む。
かつて、小樽運河の保存運動に尽力された峯山冨美さんはまだお元気なんだろうかと思い、久しぶりに忍路土場遺跡の出土品を見るため訪ねた小樽市博物館でちょっとお聞きしたら、ご健在のようで安心しました。
北海道でも暖かい南風は吹きまくり、すっかり春でした。そんな天気の中での
北海道キロロの先生・輪島千恵さんの、かっこいい余裕の後ろ姿を掲げておきます。
   

2月19日(金)
考古学とはまるで関係ないのですが、今日行われた奥伊吹カップという大回転のレースで2本滑って総合19位となり、当日賞をゲット。その足で2時間半かけて4時から出勤、会議に出席。明日も特別講演会、明後日も出勤で、その翌日から北海道です。

2月8日(月)
先週の土曜日に、新琵琶湖学専門セミナーで滋賀県文化財保護協会の横田洋三さんに、琵琶湖の湖底遺跡の話をしてもらいました。明快な論理でわかりやすく、おもしろかったです。理系出身の彼とはもう30年近くのおつきあいですが、いつも話をすると勉強になったなという感じにさせられます。
以前から少し聞いてはいたのですが、彼の父、横田一郎さんはかつて信州大学の数学の先生でした。位相幾何学が専門で、その世界ではだれもが知っている教科書のような『群と位相』というタイトルの本を出しておられるそうです。
セミナーの進行をする中で、そんなことにも紹介の中で触れたのですが、詳しく聞いてみると、大阪市立大学におられたときは、先般、ノーベル賞をもらった下村脩さんと一緒で、当時、2人は市大の3人いたといわれるホープのうちに含まれていたとか。また、同じノーベル賞をもらった益川さんは、物理学を勉強する上で必要な数学の文献として、必ず先の本をあげるそうです。お父さんに言わせると、「物理学の世界だけではなく、数学の世界でも必読文献だ」と言っているそうです。でも大学で電子工学を専攻した息子は、「読んでもさっぱりわからん」とか。

2月4日(木)
地域住民による水環境保全の雑文2編、および日本の水環境政策についての論文がほぼ終了。今、博物館のフィールドレポーターが中心になって行っている方言調査に関しての雑文2編も今朝から合間を見て書き始めました。
腰の痛みや手先のしびれはまだありますが、忙しくしていると忘れがち。といっても忙しくしているのは、職場のきわめて事務的なこと、それに屋上に勝手に生えた草木の伐採などなんですが・・・。

1月30日(土)
右手の指先が針で刺したように痛くなり、ごちそうはそんなに食べてないし、ビールは飲まないのに痛風かと。雄琴で温泉治療したりしています。
昨夜の夢はわりとクリアでした。小さな空飛ぶ座布団に乗って箸墓古墳の周りを長い時間空中観察。2〜3周しました。上から見ると、周りの濠というか谷川のようなところで、春成先生が何人かで地中探査をしてましたが、その時はC14測定だと思って納得してました。
今日は、朝から博物館で武村正義さん・上原恵美さんなど滋賀県在住東大OBのご一行をご案内しました。

1月27日(水)
先週の土曜日に、背中の痛みを和らげようとかかった温泉マッサージで腰を痛め、昨夜の植田文雄さんとの懇談会では、和室で座布団10枚重ねの牢名主。
それでも下記の論文の文章は、自分なりにはほとんど完成。あとは共著者に預けました。
次は、太湖と琵琶湖の比較論。それの見通しが立てば、『民具研究』論文などに着手しようと。

1月22日(金)
環境庁による名水百選認定前と認定後の水環境変化を考古学的視点も交えて記録した共著論文をまとめ中。息抜きには結構おもしろいものです。
年度末のあらゆる雑事の合間に、宮本憲一『環境経済学』、五来重『近畿霊山と修験道』、上田正昭『歴史家の眼』、船本弘毅『地図とあらすじでわかる聖書』、谷崎光『北京大学てなもんや留学記』を並行してそれぞれ思い出したように読んでます。あと『3秒中国語会話』を開いてはいます。

1月4日(月)
ごくわずかなこのブログの読者の皆さん、あけましておめでとうございます。

「当面の目標は、『民具資料目録』最終巻の刊行と『山と湖をめぐる考古学』のとりまとめ・科研費による出版。あとは、湖底遺跡調査のため の船舶免許取得です」
と去年の念頭に書きました。印刷物2編は予定通り刊行。船舶免許は結局手つかず。
年々、ストレスと老化は肉体に忍び寄り、去年は原因不明の背中の痛みとも闘いました。今年は、健康管理をしながら共同研究や科研費の成果とりまとめを行います。

都出比呂志先生からの年賀状に、日本考古学協会の会報に書いた近藤先生追悼文がよく書けていましたとありました。それぐらいがお正月の考古学的な話題でした。

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