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マッピーの考古学日記
diary of Archaeological matters ここではマッピーの考古学的な話題を「人とのつながり」に焦点を当て、日 記形式で記しています。わかりやすくするために所属や職名を意識して入れ、かつ実名を本人の了解なく紹介しています。ごめりんこ。
Ein-Gev,
Israel 20012011年 10月7日(金) 最近、誰に向かって書いているのだろうという考古学の市販本を見ることがある。仲間うち5・6人ほどにむけた論文としかいいようのない内容、用語、表現など。逆に、八代市の古本屋から買った『ミュージアム国富論』は、一部訳書ながらおもしろかった。 10月4日(火) 整骨院での治療中、都出比呂志先生の『古代国家はいつ成立したか』(岩波新書)を何日かかけて線を引きながらおもしろく読む。近藤先生ならおそらくこのように批評するだろうな、という視点でついつい読んでしまう。そして表紙裏にメモしながら読むといろいろ見えてきた。 中国の石家河については、これは宮本一夫さんがすでに述べているとおり、大きな一つの集落ではなく、現地で見ても周囲の「城壁」も完結しないよう。わりと精密な航空写真でもその痕跡は推定できない。宮本さんのいう洪水よけか・・。 また、列島における前方後円墳の分布域の話の中で、最南端として出てくるのは唐仁大塚古墳であるが、この南約2キロには前方後円墳4基を含む塚崎古墳群がある。実際の最南端は、塚崎39号墳(花牟礼古墳)で、全長70mを超えて墳丘高も10m近い立派なものである。これも現地で見ただけに・・。 10月1日(土) 今回の訪中は11回目となったが、ようやくその成果の一部を公表することができた。9月17日付けの、「太湖の家船と琵琶湖の「家船」」(『淡海文化財論叢』第3号 淡海文化財論叢刊行会)と題したもので、「家船は琵琶湖にあったか、水上居住民は琵琶湖にいたか」が中心ではあるが、一方で、とかく詳細な地図がない中国で、周辺地図や見取り図の作成の可能性を追求したものである。今回のエリの調査にもずいぶん役立ったように思う。 帰国してから右膝を痛めたため、40数年来お世話になっている近所の整骨院に行ったところ、中日新聞の連載コラムのことについてえらく感動していただき、逆に恐縮。足を引きづりながら気持ちは軽やかに家へ帰る。 9月24日(土) 一昨日、中国湖南省と湖北省の旅から帰る。長沙の湖南省博物館では、副館長劉小豹さん、奥さんで副主任李易志さん、湖南省森林植物園の曽志新さんらのお世話になる。今回は、馬王堆の展示をゆっくり見ることができた。その後、岳陽の岳陽楼から長江を眺め、周辺の洞庭湖・長江のエリを探し歩く。 岳陽からは湖北省の赤壁へ向かい、長江を再び眺めて三国志ならぬ「レッドクリフ」を思い浮かべる。 (宮本一夫さんの分厚い愛読書を手にようやくたどりつき記念撮影) 9月13日(火) 最近、大阪へ行く機会が何度かあり、先週は新しくなった大阪駅ビルの本屋で都出比呂志先生の岩波新書『古代国家はいつ成立したか』を買う。また、タイトルに『古墳とはなにか』とつけられてしまうと持っておかないといけないような気がして、そのお弟子さんの本も。「古墳とはなにか」は、近藤先生の業績の中でも大事な論文の一つで、学史的にもややこしくなるので、タイトルには使って欲しくなかったなというのが、読む前の感想。しかも「何」という字を使わないところまで同じ。 今日は、友人の写真家・中野晴生さんの若い頃に撮影したパリの写真展を拝見するため、夕方からまた大阪・オリンパスギャラリーへ出向く。中野さんの写真の中では、好きなジャンルの一つ。
(最も好きな作品:中野さんの了解済み)これで、長江上流域・中流域・下流域の主要な遺跡は網羅したことになる予定。 8月21日(日) 兵庫県立考古博物館で、毎日、見せ物としてサル山のサルを演じているという大学の同級生、友久伸子さんにちらっと誘われて、兵庫県で活躍中の人を中心にした研究室同窓会に昨夜は参加。昨年末、瀬川博士の琵琶湖巡検につきあうため、遠路来ていただいたご恩返しにと思い、夕方から姫路まで行きました。岡山の元助手・県教委U、市教委Nさんを含めて15人ほどにもなる大所帯。同窓生2人だけという滋賀とは大違い。単なる懇親会ではなく、茶碗やそのかけらをコンテナに入れて持ってきて、「胎土がどうの・・焼きは備前がこうの・・・」。 8月15日(月) お盆にもかかわらず、九州国立博物館副館長森田稔さんには滋賀に来ていただき、京都造形芸術大学教授の伊達仁美さんともども草津駅前の韓国料理店で懇談。この三人、元はといえば、19991年10月に初めて韓国でお会いし、博物館ツアーにご一緒して以来のつきあい。 8月12日(金) 昨日は、県内の人は入館無料という期間の最終日でごった返す中、今度着任された副知事の館内案内。福島出身というのを聞き、6日付けの新聞コピーをお渡しする。途中で、かねてよりお約束していた國學院大學博物館学実習の皆さんの案内へ。説明のための部屋も180人の教員研修のために空いておらず、収蔵庫を見ていただいた後、廊下でお話しさせていただく。暑い中、遠方より来ていただいたのに、申し訳なかったです。 8月10日(水) 昨日から、91才の老母を連れて、炎天下、島根・鳥取の遺跡めぐり。 出雲大社をはじめ古代出雲歴史博物館、荒神谷、加茂岩倉、田和山、妻木晩田、上淀廃寺、岩屋古墳、向山古墳群をまわり、生まれて初めてスキーをした大山スキー場で大山そばを食べ、皆生温泉・湯郷温泉につかって元気に帰りました。 加茂岩倉は、35年前にバイクで訪ねた神原神社古墳の近く。こんな山の中の方墳の被葬者に、何で景初三年の紀年銘の入った三角縁神獣鏡が配られたのかと当時は思ったが、かつて一緒に行った友久伸子さんから偶然にも今朝、メールが届く。返事にそのことをちらりと書く。 また、大学の同級生だったが19才で亡くなった、日本史研究室・舟木美智子さんの米子の実家近くを通る。お葬式に訪ねて以来、これも37年ぶりでした。 8月6日(土) 今日の中日新聞朝刊には、久しぶりに書いたコラム「湖岸より」が載りました。7月に派遣された福島での桜井古墳をめぐる震災関連の話題で、7月16日のブログ記事でも触れたものです。福島行きを応援していただいた何人かの方には、早速、コピーをお送りしました。 この記事を書くにあたって、地震直後のグーグルアースの航空写真を見たら、海岸から2.8キロ遡った新田川河岸段丘上にある南相馬市桜井古墳やその裾まで迫った津波被害の様子がよくわかりました。 最近では、このグーグルアースの写真を使って、詳細な地図が手に入りにくい中国・太湖周辺での新しい調査法を開発中でもあります。 8月4日(木) 今日、手元に届いた『季刊考古学』(第116号、2011年8月)は、戦争遺跡の特集号で、沖縄の戦跡や鹿児島の特攻隊基地・記念館めぐりをした僕は、興味を持って事務室で眺めていたら、末尾に自分の本の書評が載っていて驚く。『湖と山をめぐる考古学』を立正大学の時枝務先生が評してくれました。当該号には3冊の書評が載っており、広瀬和雄・土生田純之さんと私の本が並んでました。 先生には、昨年、「山の考古学研究会」の刊行本のことでご迷惑をおかけしたのに、拙著を取り上げていただいたこと感謝し、さっそくお礼状を出しました。
7月26日(火) 先週から久しぶりにソウルに行ってました。 韓国はここ数年の間、何回か行ったのですが、ソウル・インチョン空港に降りたのは初めて。しかもセントレアから初めて飛び立ちました。 移転してからこれもはじめて国立中央博物館を訪ねました。企画段階では何度か琵琶湖博物館へ調査に来られたのですが、特に熱心だった子供向け展示コーナーなどはいったいどうなったのか、興味を持って行きました。訪れたのは土曜日だったので、人が多く入場制限していたので見られずじまい。3階まである展示室の1階部分の半分だけで時間切れ。残り6分の5は次回に持ち越しとなりました。入場が無料だったこともそうですが、写真撮影可能だったことが気に入りました。 日本語の説明などがもっと充実していれば、訪ねていたたくさんの日本人にとって、日本列島と不可分の関係にあった朝鮮半島・東アジア世界の歴史理解につながると思いました。 ところで知らない間に、このブログの文体がまた「ですます調」に戻ってました。 7月16日(土) 災害派遣から戻りました。 福島県庁につめて、毎日、佐藤雄平知事の活躍を横目で見て、滋賀県が担当する避難所2個所を何回かまわりました。「事件は現場で起きているんだ」と独り言の日々でした。 放射線量は、南相馬市も福島市内も変わらずというか、福島の方がむしろ高いぐらい。海沿いの津波の被害は甚大でしたが、何もなかったところは普通に生活していました。でも心なしか人は少なめかも。 毎日定例の会議では、関西広域連合を代表して参加している滋賀県が知事・副知事の横。対面するは、原子力安全・保安院、国土交通省、内閣府、陸上自衛隊、海上保安庁など。末席に福島県各部長がすわり、その後ろに担当ほかマスコミが100人ほど。そんな会議。 派遣されていた滋賀県職員中、課長級は僕ぐらい。だいたい課長補佐ぐらいがリーダーとなって、それより若い人が中心でしたが、おじさんはちょっとがんばりました。 (福島県庁関西広域連合の私の机上) (南相馬市桜井古墳(前方後方墳)から見たがれき集積場と津波被害地
遠くに東北電力・原町火力発電所) 7月1日(金) 今日は「びわ湖の日」。琵琶湖条例制定30周年記念日で、私の誕生56周年記念日。 早朝から老母を駅まで送り、午前中は知事と館長の対談におつきあいして、午後は記念日行事の準備など。夜9時までの開館で、5時からは質問コーナーの留守番をする。というわけで、家に帰るのは11時近くとなり、明日もこんなこんな調子かも。 4日(月)から災害派遣で福島県庁へ、関西広域連合を代表する滋賀県の要員として出かけます。 6月26日(日) 昨日からの研究報告会も終わる。例年は、部長として気を遣ってばかりだが、今年は初日の進行だけを担当。今日の午後は、京都造形芸大の院生たちを案内。といっても実際は、唐箕の観察につきあうだけ。いろいろ話を聞き勉強になった。 先日、農具絵図の写真撮影に高月観音の里歴史資料館へ出向き、帰りに小谷城の麓にある小谷寺に立ち寄る。江の博覧会で賑わう城跡とはうって変わり人気は全くなかったが、元は山上にあった常勝寺。真言密教で、麓にあっても典型的な山岳寺院の伽藍配置を備えることを発見。 6月22日(水) 先の日曜日、理由はわからないものの岡山に集合していた春成先生や大学の同級生・同窓生から、来月、福島県に災害派遣される当方に応援メッセージが立て続けに届く。最後は酔っぱらい集団としか思えないような電話までかかるが、当方も新大阪駅の居酒屋にいたものだから同じような感じ。30年ぶりに話をした人までいて、懐かしさを通り越して、時の流れを素直に感じとった。 6月16日(木) 昨日、岡山市教育委員会におられた出宮さんと電話でお話をする。大声の岡山弁を20年ぶりぐらいに聞き、また今だに精力的にご活躍の様子をうかがい活力をもらう。 32年前に行った備前や美作の中世城郭調査以来、ずっとおつきあいただく。今は屏風を追いかけておられ、当方も明治の絵図を撮影にいくやら・・。 ここで最近の撮影分を一枚。 6月7日(火) 昨日、明治初期の農具絵図を撮影させていただくため浅井歴史民俗資料館へでかける。ふだんは静かなはずの資料館は、NHK大河ドラマ人気で何台ものバスがとまり大賑わい。 裏山には前方後円墳を含む古墳群があるが、「そこに小谷城関連の陣跡があり、それは寺跡という伝承があるが、本当ですか」と資料館の人に尋ねられる。撮影がすんだら確認のために登ってきますわ・・と、カッターシャツに革靴でほいほいと登りはじめる。資料館の人には、「熊がいるし一人では危険ですよ」と言われたものの、すぐそこだし・・。熊と戦うための棒きれを拾い、それで石や木をたたきながら登る。 結局、2基の前方後円墳を含む8基ほどの古墳群を『前方後円墳集成』以来20年ぶりに見るが、寺跡らしき痕跡は見られず。近くの大河ドラマ博覧会を見学し、「やっぱ「江」より「初」やな」と変な確信。そのあと、小谷城の根小屋がある清水谷へ。 夕方5時にもなるとほとんど人はいなくなり、真っ直ぐ山に伸びる谷道をまた一人で歩く。途中、虎ケ谷道の分岐では、熊のオリが仕掛けてある。再び棒きれを手にして歩く。最奥部の「江」が生まれたともいわれる浅井家屋敷跡を30年ぶりに見たのち、とっとと帰るが、えもいわれぬ充足感に満たされた。 瀬川拓郎風の写真を一つ・・・。 6月3日(金) 秋山浩三さんから『ヤマト王権はいかにして始まったか』を拝受。シンポジウムの記録を刊行したもので、考古学者チャイルドが、「都市革命」の定義をした論文を彼が探していた時、僕が提供したようなことが私信に書いてあったが記憶になく、その成果だという。あらためて拝読する。文章はわかりやすく、よくできた後輩だとあらためて感じる。彼かUのどちらかが、母校の教官になってたらよい伝統が引き継げたのにな、と独り言。 その他、最近買った本は、『アジア都市建築史』『びわ湖百八霊場公式ガイドブック』『他界へ翔る船』『人と水』(第3号:水と生業 水田の多面的生業利用)『稲作の考古学』(古本)、コピーした本は『東アジアにおける多様な自然利用−水田農耕民と焼畑農耕民−』(『国立歴史民俗博物館研究報告』第164集)。 あと、『刊本 浅井三代記』を買うか買わないか迷っているところ。2千円だけど・・・。 5月24日(火) 先週末、国立民族学博物館で開催中の「ウメサオタダオ展」に出かける。3月のブログでも少し触れた特別展示は、その図録と同じように、モノでは表せない思想や思考をなんとか表現しようとした展示の好例であった。 生前、「談論風発」と称して対談された方の名前が数百人、パネルにあがっていたが、僕が知る限り考古学者は2人だけ。分野的にもっとおられてもという思いもあったが、何となくよけいに相容れないところがあることはよくわかるので・・。 そんな考古学徒の僕と名刺交換し、それがカードに貼り付けられて整理されていたとすると嬉しいことである。対談者名の中に「川那部浩哉」をみつけ、写真を撮っておく。 梅棹先生は、やはりメモ魔・記録魔であり保存魔。そうでないとあれだけの著作は残せないし、民博はできなかったとわかった。しかし、我々凡人がそうであっても、結果的には周りに迷惑なだけで、やはり今の断捨離は続行すべきと思った。 写真撮影はフリーながら、シャープペンシルで野帳にメモを取っていたら係員に注意され、鉛筆でないとだめだという。素直に従うが釈然としなかった。梅棹先生はどのようにお考えだろうと思いをめぐらす。また、図録を購入すると、先生が使っておられたこだわりのある原稿用紙を一枚プレゼントされたが、これも先生を神格化して、下賜してやるといった感じがしてしまった。 ブログ「北の考古学」風に一枚。 5月13日(金) 昨日、奈良国立博物館へ「誕生!中国文明」を見に行く。河南省文物局の資料が中心となった名品が並ぶが、その前に旧館「なら仏像館」で木下コレクションの中国青銅器の数々を見てから入ったので、目がこなれていた。また、久しぶりに竜王町雪野寺跡出土の童子塑像にもお目にかかる。 その後、雨上がりの東大寺大仏殿から講堂跡、正倉院、二月堂、春日大社へと足を伸ばす。途中、境内で布目の入った古瓦片をいくつも目にするが、拾うこともなく興福寺の横を通ってトボトボ帰る。 5月6日(金) 明治大学の佐々木憲一さんから『はじめて学ぶ考古学』を送っていただく。限られた分量の中で、方法論にはじまり、今の考古学を限られた量の中で語るのはなかなか難しいことだと思う。全文を電車の中で読もうと思うが、連休中で、勤務シフトもとびとびなのでなかなか進まない。 そのコラムの中で、レンフリューやホッダーの野望は、「現代のチャイルド」になることというくだりがあって、へーと思った。ホッダーは、彼がまだイギリスにいた1997年に、博物館でお呼びして講演してもらう。2・3日お世話してwith many thanks とはいったサイン入りの本ももらったことから印象深い。レンフリューも間接的ながら博物館のお願いを気持ちよく聞いていただき、コメント映像をケンブリッジで撮らせていただいたことがある。二人の映像は、琵琶湖博物館常設展示室でいつも流れている。 久しぶりに川那部浩哉前館長とお会いし、フランスで開催するファーブル展の話をする。4つの原稿執筆と3つの展示企画を抱え込み、縮緬問屋のご隠居もなかなか忙しい。 4月30日(土) 昨日は、長野・岐阜県境の御岳調査。標高1800m地点では、一日中、雪が降り続くなど、もう5月とは思えない天気。 今日は、旧高島郡域の首長墓の調査。平ケ崎王塚、田中大塚の写真撮影をし、熊野本古墳群はなめるように歩く。足とノートと鉛筆だけで、掘らずとも新しい発見がいくつもあった。帰り道は国道161。連休行楽帰りの渋滞につかまりながら、意外に満足感に浸る。 25年前に県指定史跡にしたときの平ケ崎王塚は、杉の植林も小さく、墳丘がよく見えたが、今ではこんもり森の中にあり、遠くからは墳丘輪郭が見えない。古墳に比べれば短いながらも、時の流れを古墳で感じる。 帰り道、国道161号線北比良あたりで、吉崎御坊へ向かう「蓮如さん」ご一行の列を初めて見る。30年ほど前まで、叔父が毎年5月5日、福井の今庄宿から滋賀の木之本宿まで、「蓮如さん」の吉崎からの帰り道、北国街道の二つの峠を越える40キロの道のりを同行していたのを思い出す。 4月26日(火) トップページをマイナーチェンジ。考古学徒としてはじめて遺跡の調査に参加したのは1975年のこと。その記念すべき備前(湯迫)車塚古墳の写真を探し出して掲げる。撮影は1976年10月。遠くに見える山陽新幹線あたりは雄町遺跡の東方。 今日は、県文化財保護協会事務局副局長葛野常満さん、県教委文化財保護課課長補佐木戸政寿さんたちと最近の近江考古学事情意見交換。先日の毎日新聞コラム記事を持参して読んでいただく。 4月1日(金) 今日から晴れて「縮緬問屋のご隠居」。しかし事務室の机配置はかわらず、気分も一新しない。せめて研究室だけでもと、本のみならず、古い論文抜き刷り・コピー、現地説明会資料などにも手を広げて断捨離続行中。 滋賀県・県内市町村の報告書はほぼ半分になった。すっきりしたところで4月末に向けた民具研究論文にも手をつけ出す。 3月30日(水) 人事異動で研究部長兼務がはずれたことと関係はしないが、研究室の本の断捨離を数日前からはじめ、段ボール箱5・60箱分を処分することにした。県内・県外を問わず発掘調査報告書を中心に単行本や博物館図録、書類や自分の書いた本まで。ふんぎりがつかない中、友人の県教委・木戸雅寿くんの後押しを得て、どんどん事が運び、気持ちもすっきり。30年間見なかった本は、今後、5年、あるいは長くても10年ほどの考古学徒生活では決して見ないだろうと・・・。弥生・古墳時代を中心にした一部だけ残した。しかし、研究室をはみ出て資料整理室にまで進出した本は相変わらずで、全体の10分の1ぐらい減ったかなという感じ。そんな作業の中、新しく送られてきた報告書もあるし、捨てる本にはびっくりするくらいの値段の書かれたものもあり、気持ちは複雑だが爽快感がまさった。 (余談)先週末に志賀高原へ出かけるが、地震等の影響で怖いくらいの人気(ひとけ)のなさ。いつもは100人以上の人で賑わう定宿のホテルも我々以外は2人。チェックアウトしたとたん、今シーズン営業終了だとか。 3月22日(火) 瀬川拓郎さんの新刊書『アイヌの世界』を拝受し、通勤電車の中で読みふける。昨年12月にお聞きした話も含めて、あらためて瀬川ワールドに触れる。 彼がいるおかげで何度も旭川におじゃまし、またそれ以外にもスキーをしている関係から年(シーズン)に2度3度と北海道へ行くため、興味を持ってご高著を読むことができる。日本列島の真ん中にいながら、「辺境」の地に興味があるのも彼のおかげかも。 さらには、彼のブログで『梅棹忠夫 知的先駆者の軌跡』という特別展図録を知る。図書室で長時間読みふけり、結局、借りるはめに。図録には、琵琶湖研究所の所長であった吉良竜夫先生なども登場し、九大におられた岡崎敬先生の名前も写真中の黒板に。 1992年11月に、今は滋賀県知事の嘉田由紀子さんと一緒に民族学博物館館長室を訪ね、眼がご不自由なのは知りつつ礼儀かと思い名刺を差し出したところ、嘉田さんが僕をたしなめられたが、梅棹さんは、「構いません。いただきます。「ようだ」さんとどんな漢字を書くのですか」と尋ねられた。その時にいただいた名刺は今も大事に保存している。 その後、民博レストランの職員エリアの決まった一角で、お昼にビールを飲んでおられたのを何度かお見かけしたのも梅棹さんの思い出。ついでながら、学問はあまり習わなかったが、民博のテニスコートで2・3回テニスをした小山修三さんも、晩年は梅棹さんの片腕として支えられたことを知り、誰かと二重写しになる。 3月10日(木) 先週土曜日に、クラブ対抗スキー競技会で大回転45歳以上の部3位に入り、翌朝、始発で那覇経由石垣島行き。 温度差を感じながら、遺跡・博物館・民俗調査のため、石垣島から人の住む日本最南端の波照間島、伝統的建造物群保存地区のある竹富島などにも足を伸ばす。 石垣に着いたとたんカメラが壊れ、亜熱帯の森の中の遺跡で木に額をぶつけ「愛と誠」状態。昨日はレンタバイクが突然動かなくなるが、3つの島の遺跡などは見尽くす。 島で買った『美麗島まで−沖縄、台湾 家族をめぐる物語−』『ひめゆり−沖縄からのメッセージ−』『月刊やいま−八重山と台湾の交流−』を読みながら昨夜帰宅。石垣から関空までの直行便ながら、那覇で給油のため荷物もろともおろされたため時間はたっぷり。それも石垣空港の滑走路が短いため燃料を十分に詰めないためとか。そういえば、新しい空港建設予定地で発見された白保竿根日原洞穴遺跡も遠くから眺める。 彦根に着くと一面銀世界の吹雪。また温度差にやられる。 お土産は、昨年9月に尖閣諸島沖で中国漁船に体当たりされた巡視船「よなくに」が石垣港に接岸している写真と、アメリカ国務省メア日本部長発言を伝える地元紙『八重山日報』。 3月2日(水) 先日から春成先生と「狗奴国・「前期」古墳」の旅。ところどころ黒坂秀樹・植田文雄さんの説明や案内を受けながら、小雨の中、小松、姫塚、荒神山、神郷亀塚、安土瓢箪山と、出土遺物も見ながらまわり、昨日は赤塚次郎・長瀬治義さんの案内もえて、愛知県・岐阜県の東之宮、妙感寺、青塚、次郎兵衛塚、長塚、野中、西寺山、東寺山1号・2号、高倉山を雨中、歩く。 2月17日(木) 去る2月12日に、琵琶湖博物館前館長川那部浩哉さんのフランス・レジオンドヌール勲章受章と滋賀県文化賞受賞をお祝いする会を開催した。事務局を担うことになり、10月の末から準備を始め、ようやく開催することができた。 知事・副知事、前知事・前副知事というような県の幹部と、文化勲章などを受章した生態学界・自然科学分野の重鎮など、関西を中心に200人あまりが集まりお祝いする。 自分は、ローストビーフ2切れとウーロン茶1杯で終わったが、無事に盛会のうちに終了。 肉体労働をしたわけではないものの疲れ切り、帰り道の守山駅のベンチで電車を待つ合間にワンカップ一杯とおにぎり一個をようやく口にする。 2月5日(土) 1日(火)に静岡県の沼津市歴史民俗資料館を訪ね、内浦・静浦を歩く。 国指定重要民俗文化財になった漁労用具類やその現場を見学させていただく旅で、冬の滋賀では考えられない晴天。市内のどこからもきれいな富士山が見えることに感動。 資料館学芸員の米山裕子さんや資料館委員の外立ますみさんのお世話になる。実際に民具を使った経験のある地域の人のお話を直接伺うが、全く方言・なまりがなく、聞きやすかったことにもびっくりする。近江では、地元のものでもわかりにくい時があるのにと思ったら、あとで聞いたところによると、できるだけ標準語を使うように気を遣ってくださっていたとのこと。 民具の収蔵施設のある沼津市文化財センターを覗くが、埋蔵文化財担当者とおぼしき人がたくさんおり、夕方5時前になると続々と事務所に帰ってきた。市内がエリアだと、こうしてみんな帰ってくるのかと驚く。 昨夜は、植田文雄さんとひさしぶりに考古学談義。県内の大学や教育員委員会の行く先を憂う話で終始。 1月29日(土) 『淡海文化財論叢』の原稿「太湖の家船と琵琶湖の「家船」」を夕方から夜の時間を利用した3日間で書き上げ、昨日、事務局に提出。昨年から4回、太湖を訪ね歩いた成果の一部であるが、図版作成を含めても1週間でできるようでは、その成果は大したことはない。いくつかの事実関係を指摘したのにとどまるが、従来、民俗学者や社会学者がやってきた視点と異なることだけは確かだと思う。 琵琶湖には、正確な意味での家船はなかったというのが一つの結論。もう一つは、従来、詳細な地図・地形図の入手が困難であり、測量やGPS使用も制限がかかっていた中国において、衛星写真を利用した資料作成の可能性を提示したことぐらい。 1月21日(金) さる17日、神戸の震災があった日に淡路島の野島断層保存館を訪ねる。 16年前のあの日の朝は、福岡県八女市の岩戸山古墳の調査に向かうため、瀬戸内海を行くフェりーの中で大波にゆられたものの、直接怖い目には遭わずにすんだ。 同じ船に乗っていた京大地球物理の小林先生や大阪工大実験物理の岡本先生は、「今朝のあの波はおかしい・・・」と朝に会ったら言っておられたことを思い出す。 その後も大変だった。同僚学芸員の母が地震で亡くなり、その実家が福岡県久留米市ということで、結局、九州に2週間ほど滞在し、その後は彼女の家を掘り出しに2度神戸へ出かけた。 そんな淡路島で自由時間に前方後円墳でも見ようかと思ったら、1基もないことを初めて知った。もともと風邪気味だったので、どこにも出かけずに終わり、さらには帰ってきて寝込んで仕事を2日間休むことに。 なお、岩戸山古墳の調査結果は、その後、九州の高木恭二さんや吉留秀敏さんたちと議論しながら周辺遺跡を歩いた成果も加えて、1999年10月に『古文化談叢』に発表した。 1月13日(水) 最近送られてきた『考古学研究』を朝の通勤電車中で眺めるが、難解になり読むところがなくなってきたと痛感。職場で何人かの考古学徒に尋ねるも皆同じことを言う。 「それなら考研の編集長にメールでも送って、やさしくわかりやすくするようにゆうとくわ」 とメールを開くと、当の編集長の山本悦世教授から久しぶりのメールが届いていた。その返事に上記のことを書いたところ、そのさっそくのレスに、 「難解という点では未熟なのでしょうね」。名言であった。 しかし真実は、自分が今の考古学の議論について行けなくなっただけのことかも知れない。 1月12日(水) 大津市歴史博物館館長の松浦俊和さんから、著書『近江 古代史への招待』を拝受。昨年開催された刊行記念のパーティーには、老母の入院が重なり出席できず、はじめて拝読する。また、春成秀爾先生から年賀のメール。体調を崩されながらもいつもの精力的な活動ぶりに脱帽。その他、正月には田中琢先生などからお元気な様子を知らせる便りも届く。まだまだ、自分も地道にボツボツとやらねばと、ちょっと思う・・・。 1月10日(月) 昨夜から、NHK大河ドラマ「江」がはじまる。 随所に浅井長政の居城・小谷城や真向かいで信長が陣をおいた虎御前山城が登場し、感慨深いものがあった。 1981年に、小谷城の麓にある武家屋敷群、通称清水谷に、地元が公共施設を無届(正確には「無通知」)でつくり始めたことをきっかけに、小谷城全体の調査をその後3年間にわたって担当した。当時、清水谷は、最奥部の根小屋である浅井屋敷を含んだ手つかずの場所であり、国の史跡に追加指定しようとしていた場所だった。工事の中止命令(正確には「要請」「指導」)はしたもののいつしか完成。 谷入口の濠を埋めるような民家住宅や倉庫建築計画、ブローカーの介在、山は農林省の事業が入り、城跡とは無縁の植栽・遊歩道計画、支城の一つは土取り計画が何度となく持ち上がり、代議士や県議会の先生方が入れ替わり立ち替わり・・・。 一昨年に刊行した小著でも少し触れたが、100回以上、小谷山に登り、なめ回すように城跡遺構群の悉皆調査を行った。当時はお元気だった小谷城址保勝会会長の中村一郎先生に次ぐ生涯登城回数だったと自負している。軌跡を図化すると小谷山全山に網をかけたようだと思う。安土城考古博物館にある小谷城跡模型は、その時の図がモデルとなっている。 山土を売ろうとする地元からの呼び出しに、米原の発掘現場を終えてから夜12時すぎまで、25・6の若輩者が一人で乗り込んだことを思い出してしまった。 1月3日(月) 明けましておめでとうございます。 勤め先の博物館は今日から開館。今朝、駅までの雪道を歩く中、二度ほど滑るなど、スキーの達人であるにもかかわらず難儀した。一説によると、滑るのが得意という話もあるが、それほど寒い日でありまだ正月であるにもかかわらず、たくさんの人に来ていただきありがたく思う。 年末25日付けの中日新聞コラムに「電子辞書に考古学の古典」と題した小文を載せたが、中国語学習のために買った電子辞書に、日本文学300選が書籍として収録されており、その中に濱田青陵先生の『博物館』が含まれておりびっくりしたという話。 今では『考古学入門』と題されて講談社学術文庫の一冊になっているこの本を電子辞書ではじめて通読した。残念ながら、先生がこだわった挿図は一点も掲載されていなかったが、とにかく発見であった。 |