2003年度 琵琶湖博物館研究セミナー 発表要旨

           中世山岳寺院・弥高寺跡の特質            2003/8/15 用田政晴

1 位置と歴史
 伊吹山は、古くから山岳仏教の聖地として知られ、平安時代初期には比叡山、神峯山、金峯山などと共に、七高山の一つに数えられていた。その伊吹山から南に張り出す尾根の中ほど、標高約700m付近に築かれた山岳寺院が、「弥高百坊」と地元では伝えられる弥高寺跡である。
  弥高寺は、仁寿年間(851〜854年)、三修によって建てられた「堂舎」にはじまり、後に定額寺となった伊吹山寺の系譜を引く。弥高寺は、太平寺、長尾寺、観音寺と共に伊吹四大寺と称され、伊吹山寺の中心寺院となるが、永正9年(1512年)6月、兵火のため消失した。しかし、天文9年(1540年)の文書には弥高寺の坊名が残り、天正8年(1580年)に山の西麓へ移ったともいわれる。

2 規模と構造
 60を超える坊跡群は、東西約250m、南北約300mの範囲に集中し、「本坊」跡を頂点として下方へ扇形に拡がる。「本坊」跡は、標高714m地点にあり、最大で東西約68m、南北約59mを計る。この遺構は二段からなり、基壇状の上段には、最大で一辺18m四方の南面する建物を想定することができる。その他の坊跡は、平均20×15m程度で、中央の「本坊」へ続く道を挟んで東西に展開する。坊跡群への入り口には、「門」と「大門」という2つの門跡が石積みと共に残り、「本坊」跡東側には、池を持つ坊跡、その先には「入定窟」(別名「石室」)を備えた「行者谷」がある。
  「本坊」跡の北西背面には墓地が拡がり、石仏や五輪塔が4群に分かれて70基以上、残されていた。この付近の一部を試掘したところ、13世紀後半から15世紀末・16世紀初頭にかけての瀬戸・美濃あるいは常滑の蔵骨器、それに土師皿や青磁碗が出土し、特に14世紀後半の常滑焼大甕には再葬されたとおぼしき人骨、炭、灰が詰まっていた。

3 長尾寺・大吉寺などとの比較
 浅井町大吉寺は、天吉山の支尾根上、標高約650mに位置する天台の山岳寺院であり、49院を誇っていたが、元亀3年(1572年)、信長により焦土と化したと伝えられる寺である。本堂は60×50mの平坦地に約20m四方の5間×5間の礎石建物であり、それを頂点に三方へ坊跡群が尾根状に拡がる。池や入定窟を備えるなど弥高寺と類似するが、弥高寺の坊跡はその配置に規則性とまとまりがある。大吉寺の坊跡群の配置は、むしろ米原町上丹生にある松尾寺に似る。
  弥高寺と同じく伊吹四大寺の一つ長尾寺は、伊吹町大久保に残る山岳寺院ではあるが、麓に近い尾根状に築かれ、寺跡最下部と周囲の平地との比高差はほとんどない。長尾寺は、最大27×49mの「本堂」跡を中心に70個所ほどの坊跡群が、その下部である西側の麓へ向かって扇形に拡がるが、「本堂」跡は弥高寺の「本坊」跡に比べると小さく、さらに坊跡群全体が西面するのに対し、「本堂」は無理に南面させているのが特徴である。
 一方、秦荘町金剛輪寺は、今も天台宗名刹としてよく知られているが、ここも本堂を頂点に下方へ約60の坊跡群を規則的に並べた山岳寺院で、15世紀から16世紀にかけてが寺の最盛期であったという。規模的には、弥高寺などとかわりはないが、長尾寺のように山塊の麓近くに築かれ、弥高寺のような平地からの比高差はほとんどない。ただ、信長などがからんだ戦乱の中で、いくつかの坊跡には土塁が残り、本堂から南に派生する尾根上には空堀や堀切が残っている。

4 弥高寺跡の特質
 日本には千を超える山岳寺院があるといわれる中で、近江はその全容がわかる例が多く知られる地域である。その近江で、これまで測量調査等が実施された4つの寺院と比較してきた。あらためて弥高寺跡は、山岳密教から展開した中世の山岳寺院の中で、典型的な高山中腹にあり、大規模で最もまとまりがある。また、遺跡の保存状況が極めてよいものであることがわかる。
 一方で、「本坊」の周囲には大規模な土塁が残り、屈折した進入路と「大門」跡の枡形虎口や石積、その脇の2個所の櫓台らしき跡、「本坊」背後の2条あるいは3条の堀切、「本坊」西側の竪堀など他の山岳寺院にはおよそ見られないほどの城塞的施設が備えられている。
  かねてより弥高寺跡の土塁等の存在などから、これを上平寺城(桐ケ城あるいは刈安尾城)とする意見があったが、その後の周辺のいくつかの山岳寺院調査の進展により、一層、これが軍事的色彩の濃い山岳寺院であることがわかってきた。上平寺城と尾根を通じてほぼ直接的につながった位置にあることも含めると、おそらくはこの弥高寺が、中世末段階で上平寺城の出城あるいは出郭として、元亀年間まで機能していたと考えられる。そして上平寺城の落城をきっかけに、天正年間の麓への移設を迎えたのである。
 こうした事例は、戦国大名浅井氏の居城小谷城と、山岳寺院であった大嶽寺との関係において最も顕著にも知られるところである。

参考文献
用田政晴『弥高寺跡調査概報』(『伊吹町文化財調査報告書』1)伊吹町教育委員会 1986年
柏倉亮吉「大吉寺趾」『滋賀県史蹟調査報告』第6冊 1934年
土井一行『松尾寺遺跡発掘調査報告書』(『米原町埋蔵文化財調査報告書』]]) 1999年
高橋順之『長尾寺遺跡測量調査報告書ー平安時代創建の山岳寺院遺跡ー』(『伊吹町文化 財調査報告書』第5集)伊吹町教育委員会 1992年
林 定信『金剛輪寺坊跡分布調査報告書』T(『秦荘町文化財調査報告書』第9集)秦荘町教育委員会 1993年

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