いつごろ どこで どんな様子でしたか 年齢
大正8〜昭和2年頃 近江八幡市

長命寺港
明治生まれの祖父は、70〜80年前、仕事として丸子船に乗っていて、いつも土を運んでいると聞いていた。隣家は丸子船を造っていた船屋であった。 35才の女性
大正時代〜
昭和7年頃
近江八幡市

八幡堀
八幡瓦の燃料として薪や炭を運搬していた様に思います。安曇川へ農作物を載せて渡り、帰りに朽木の方で採れた薪を載せて帰っていた。展示の丸子船くらいの大きさの船が八幡堀を出入りしていた。 80才くらい
昭和2年頃 近江八幡市
田中江町
の入江
米俵を載せた丸子船が着いていた事を思い出す。昭和19年以来、内潮が開拓されて水路が断たれ、水深が浅くなり船運もなくなり途絶えてしまった。 72才
昭和初期 近江八幡市

江頭町
高島郡の方より薪、柴、たき木などを積んで、帰りには瓦を載せて運搬していた。長命寺港まで乗船した。甲板は坂になっていたので上に乗ると落ちそうで非常にこわかった。 77才
昭和初期 近江八幡市

八幡堀
沖島の漁師が魚を近江八幡市内へ売りに来て、日用品を買い込んで帰る姿が思い出される。また、この船で一泊することも度々あった。八幡堀は水量も多く、水もきれいで魚釣りもした。「いかだ」にも乗って遊んだ。 68才
昭和初期 近江八幡市 大正時代から昭和初期にかけて、近江八幡市内の八幡堀の沿岸に多くの瓦屋があり、そこから瓦を運搬するために丸子船が使われていた。市内に住んでいたので丸子船をよく目にした。遊ぶときも川縁に置いてあるのに乗ったりして遊び、「まるこ、まるこ」と呼んで親しんでいた。また、瓦屋の家では田舟として船を利用していて、町内の船大工に田舟を注文して造ってもらったりもしていた。船大工は船の設計図を持っていなかったが、板の型紙を持っており、その型紙に合わせて板を切り、船を造っていた。 60〜70才代の男性
昭和初期〜
昭和60年頃
近江八幡市 田舟は1軒に1〜2艘あった。今も櫓が残っている。田舟に米や籾、牛を乗せていた。
昭和初期(50年ほど前):
北里、江頭町に丸子船が着いていた。沖の島から石、海津から薪を運んでいた。
昭和35年頃:
機械(送り込みの脱穀機)を積んでいた。
昭和58年:
水路→道路(ほ場整備)
60才代のグループ
昭和7〜8年頃 近江八幡市 湖西方面から、薪、炭を運んで来た。帰りは、瓦、畳、蚊帳などの近江八幡名物を積んで行った。これくらいの大きさのものや、もっと大きいものもあった。 72才
昭和7〜10年頃 近江八幡市

八幡堀
瓦にする土や燃料となる柴などを運んでいる丸子船をよく見かけた。子供だったのでそう感じたのかもしれないが、展示の丸子船よりもっと大きな船だったように思う。 70才代の男性
昭和10年頃 近江八幡市
能登川の湖よりの?で?(膳所冊)を積んで、近江八幡まで船出し、八幡堀で荷降ろしをした。昔は陸運より水運で、特に大きな荷物は船を随分利用した。 77才
昭和12年頃 近江八幡市

八幡堀
レンガまたは瓦を大津へ運んでいく丸子船をよく見かけた。船の大きさは展示しているのと同じくらいか、もっと大きかったかもしれない。 82才
昭和12年頃 近江八幡市

八幡堀
女学生時代、近江八幡新町の浜よりポンポン船で牧の水泳場に行くのに乗った。今は八幡堀も水が浅くなり船は通れない。 72才
昭和12年頃 近江八幡市
船木町
周辺
丸子船でレンガを積み、八幡堀を通って長命寺港に出て大津まで運搬したものだ。だいたい百石積み船でほとんど一人で乗っていた。風のない時は一人で櫓を漕いでいた。
昭和12〜13年頃
まで
近江八幡市
新町
八幡城の外堀が運河になっていて、新町浜から外堀を伝って琵琶湖に出て長命寺に着き、長命寺参りをしたことがある。田舟と丸木船の間くらいの大きさの船で、定期船として通じていた。途中に、関所のような所があり、そこを通らなければ長命寺に行けなかった。当時はバスなどなかったので、長命寺参りにはこの八幡城外堀−長命寺の定期船しか交通手段がなかったのではないか。大きさは展示の丸子船と田舟の中間くらい。 68才
昭和12〜13年頃 近江八幡市 新町浜から湖西まで、焼玉エンジンの付いた船(1〜2人の船頭、木造船、約10mくらい)で、柴、割木、炭など運んでいた。長命寺へ8月1日、2日と千日会に船に乗ってお参りに行った。子供の頃から欠かさず千日会に行った。八幡瓦の粘土なども、運んでいたことを覚えている。円山(近江八幡)などでは、ヨシを舟で運んでいた。当時はヨシの簾を作っていた姿も日常的だった。 67才
昭和12〜13年頃 近江八幡市
八幡堀
塩津から八幡瓦の燃料の柴や、南津田の田んぼから瓦の土を運んでいた丸子船を見たことがある。この展示の船より少し大きかった様に思う。2名で運転していた。堀の中は細いので、竹竿で突いて前へ進ませていた。堀がヘドロで埋まってくるので、ヘドロの川ざらえをした。そのヘドロは、瓦の土を採って低くなった田んぼに入れた。何年かすると、それが固まってまた粘土質になり、瓦土となった。今、八幡堀の周辺だけ川ざらえをしてきれいにしようとしているが、川は上から下へ流れるものだから、琵琶湖川口から川ざらえしないとムダである。昭和42〜43年頃、堀に「八枝」を打って工事をしたのが、水の浄化の妨げになっている。昔はボテ(タナゴ)がいっぱいいて、ヨシの新芽でワタカをつった。 65才
昭和12〜19年頃 近江八幡市
長命寺〜
西浅井町
塩津
塩津から燃料(薪、柴、炭など)を近江八幡に運んでいた。夕方出発し、夜の間に琵琶湖を走っていた。昼は商談で、船は誰もいないまま港に泊まっていた。子供の頃、その泊まっている船に乗り込んで遊んでいた。日が落ちる頃、また塩津へ帰って行った。船が最も重要な交通輸送手段だったと思う。割木や柴は中だけでなく、船上にもくくりつけて運んでいた。船の中でお米を炊いたり、料理をしたりしているのがうらやましくて、中に入りたくて仕方がなかった。時々おじさんに無断で船に入っているところを見つかって、よく怒られた。 67才
昭和12〜22年頃 近江八幡市 沖島から安土へ石を運んでいる帆付きの船を見たことがある。また古くからの言い伝えで、近江の人が商いのために船(丸子船かどうかは不明)を使って北海道まで行った。 70才前後の女性
昭和13〜23年頃 近江八幡市
八幡堀
田舟を使って、瓦用の土を運んでいたのを見たことがある。大きな船ではなかった。土はどこから持って来ていたのかは分からない。 60〜70才代
の女性
近江八幡市
の港
母が若いころ、家の前辺りが港だったらしく、港に丸子船が着くと「丸子が来た」といって丸子船の船員さんを周辺の人達でもてなし、その間に荷物を降ろしたりしていた。 60才代
昭和14年頃 近江八幡市
八幡堀〜
牧水泳場
エンジンが付いていて子供達40〜50人を運んでくれた。値段を覚えていない。八幡堀もこういう船が着けられる深さがあった。その後、徒歩で行ったが6kmの道は子供にはきつかった。 72才
昭和15〜16年頃 近江八幡市
長命寺港
長命寺浜から北小松まで、丸子船に乗ってキャンプに行った。20人くらい若い者が乗っていたが、途中風が強くて、ほとんどの者が船酔いをした。当時、帆はなくエンジンで走っていたと思う。八幡堀の新町浜は船が回れるくらい広かった。堀の中は、前と後ろに竿を持った船頭さんがいて三本杭という所まで出た。 72才
戦前 近江八幡市
長命寺
子供の頃、夏の昼下がり親が昼寝をしている間に、子供達だけで長命寺まで泳ぎに行った。今頃の中学生の男の子が田舟を運転し、ザルやバケツ、網を持って行き、橋の下などで水をせき止め、魚を採った。親が神職だったため、長命寺から沖島へ、お祭りの時などに神様へのご馳走を持っていくのに付いて行った。沖島では米が作れなかったので、漁師の人が魚を持って近江八幡へ出かけ、米などを運んでいたと思う。こちらは丸子船の小さいのだったように思う。 60才代の女性
戦前 近江八幡市
子供の頃、八幡の堀から湖まで近所の子供達10人くらいで田舟に乗せてもらって泳ぎに行った。大人1人くらいが漕いでいたように思う。 70才代の男性
戦前〜
昭和30年頃まで
近江八幡市
〜大津市
堅田
近江八幡から屋根瓦の原料を積んで、堅田まで運んでもらっていた。自分は現在も屋根瓦を製造している会社の三代目で、昔は近江八幡にいわゆる丸子船の運送業者があり、その方に頼んで原料を運んでもらっていた。展示してあるものと全く同じ丸子船だった。子供の頃、展示のように橋をかけて荷下ろしを手伝ったものだ。 70才前後の男性
戦前から現在まで 近江八幡市 和船2艘を横に並べて板を渡し、昔は牛、今は耕運機を積んで田まで移動する。子供の頃は魚釣りに出かけ、ヒガイやモロコがたくさん釣れた。今はブラックバスばかり。 50才代
昭和18年頃 近江八幡市
篠原〜
琵琶湖岸
戦時中、動員で干拓地を作っていた頃、丸子船が琵琶湖を往き来するのを何隻も見た。大きさは展示のものの半分くらいだったと思う。 70才前後の男性
昭和18年頃 近江八幡市
新町浜
高島から瓦を焼く柴などを運んで来て、帰りには近江八幡の商品(菓子など)を積んで帰った。3〜4日間は船の中で寝泊りした。船頭は2人で親子が多かった。八幡堀の中の方まで入って荷を降ろしていた。百石くらいの大きいのものをよく見た。 76才
昭和20年頃 近江八幡市 昭和11年生まれのNさんが子供の頃、お母さんから聞いた思い出話。
毎年8月1日は長命寺のお祭りで花火があがったり、そりゃ賑やかだった。八幡堀や牧や円山から川にはお祭りに行く船でいぱいだった。お金持ちの方は遊郭の女の人を呼んで(近江八幡、八日市には当時花街があった)飲めや歌えの宴会が船上で行われた。その後、大津の花火などが始まった。沖島のフナズシは魚が肥えていてとってもおいしい。昔は沖島の人はフナズシの本漬けを桶ごと琵琶湖に沈めて漬けていた、水替えする必要がなかったと聞いた。
64才
昭和20年頃 近江八幡市〜安土町の水郷地帯 当時はこの辺り一帯はクリーク地帯で、農耕用の牛の運搬に難儀した。田舟を2艘つないで牛を乗せて運んだ。1艘だと牛が重すぎて舟がバランスを崩し転覆してしまうので竹の竿で2艘に横梁を入れてしっかり固定した。 68才
昭和20年頃 近江八幡市
本町橋
田舟に乗って卒塔婆流しで長命寺へ行きました。乗船は10〜20人前後。大きさは7mくらい。よくお盆に使われる。普段は長命寺の千日参りに役立った。船に牛1頭を乗せて、もう1つの船に船頭が乗り、綱を引いてつなげて使用。田んぼの仕事に役立っていた。 63才
昭和20年頃 近江八幡市 近江八幡で瓦屋を営んでいたので、湖西方面(堅田方面)へ瓦や木材を専門の輸送業者に運んでもらっていた。湖西からは、米や野菜などを積んで来た。当時は、船を生活の場とする水上生活者がいた。また、近江八幡の岡山に湖から八幡堀へ入るために、水位を調整する水門があった。 61才
昭和20年頃 近江八幡市
西生来
弁天島に遊びに行った思い出。今は陸続きになってしまった。弁天島まで田舟で行き、竿飛び、水泳などをして遊んだ。伊崎の竿飛びのようなもの。沖島の人も、田舟で近江八幡まで来ていた。安土町、安土城の瓦に金箔がついていて、金箔付き瓦のかけらなどが、落ちていて驚いたことを今でも覚えている。 75才
昭和20年頃 近江八幡市
野村町
田舟で田への行き来、稲の運搬、下肥などを運んだ。揺れるので、ワラで落としブタの様にフタにしていた。田んぼの端の「ドウケ」(大きな樽状の入れ物)にため、使用していた。田舟を漕ぐ方法として櫓と竹竿を使った。内緒で魚釣りに行ったりした。荷物をめいっぱい乗せたので、自分の座る場所はヘサキで、何度か落ちたことがある。雨の翌日は突桶(つきおけ)で水をかい出すのが子供の仕事であった。
昭和20年頃 近江八幡市

〜彦根
〜長浜市
〜塩津
近江八幡から彦根まで、水道のバルブを作るための型砂を運んだ。エンジンの付いている丸子船だったので、船の先の方に寝床を作って一泊し、バラス(コンクリートに使う砂利)を積んで帰った。船に荷を積み込むのに半日、船で渡るのに半日、一泊してから戻るのに半日、荷を降ろすのに半日かかった。160kgくらいの荷を1人でいしもこを使って肩に担いで運ぶ。船には16tくらいの荷が積んであったが2〜3人で作業した。エンジンを見るのが1人、荷の上げ下ろしに1〜2人。塩津には瓦屋がたくさんあり、近江八幡から瓦土も運んだ。焼玉エンジンは、鉄の玉の真ん中に穴があいており、穴に油を通して爆発した勢いでピストンが上下する仕組みになっている。焼玉が熱くなり過ぎないように、水で冷やしながら温度を一定に保った。20〜27才くらいまで丸子船に乗っていたが、昭和30年頃からオート三輪やトラックが出始め船は廃れてきた(船名は大橋丸)。 66才
終戦時頃 近江八幡市
八幡堀
展示されているものより少し小型の丸子船で塩津(大崎)から八幡堀へ柴や割木や瓦を乗せて運んでいたのを子供の頃よく見た。八幡堀沿いにずらりと並んでいた薪炭商や瓦屋が、仕入れをしていたらしい。おそらく木之本町の中河内(滋賀で一番雪深い所)辺りの材木だろう。丸子船の屋根の部分(こもなど)は取り払って、かなり上の方まで柴が積まれていた。 70才くらいの男性
昭和20年代 近江八幡市 昭和20年代初め 八幡瓦を積んで浜大津方面へ運んでいたという人を知っている。 60才くらいの男性
昭和20年代 近江八幡市
周辺
琵琶湖祭りの第1回目の年、琵琶湖の水位も高く、長命寺辺りへ船で行った。左義長祭と琵琶湖祭りの共催事業で船に乗った。柴、木地屋(きぢや:木材の問屋)が近江八幡にあり、瓦も積んでいた。相当大きな船という思い出もある。昭和30年頃には全く見かけなくなった。湖北に行った時、琵琶湖博物館のものより小さい、陸に上げられた丸子船を見た記憶がある。 62才
昭和22年頃 近江八幡市
岡山、
新巻、
近江八幡の新町から牧の水泳場まで船が出ていて、夏にはその船に乗り、浜まで泳ぎに行った。水郷めぐりの辺りに舟がいくつもあった。展示の丸子船の半分くらいの大きさで20名ほど乗れた。
昭和22年頃 近江八幡市 私は湖岸に住んでいたわけではなかったが、小学校の頃、1年に1回毎年「舟行き」ということをした。「舟行き」とは、知り合いの人から借りた田舟を琵琶湖に浮かべ、家族の慰安のためにすき焼きパーティをすることで、子供心にも大変楽しみで、とても良い思い出。今もそんなことが出来れば良いなと思う。 56才女性
昭和22年頃 近江八幡市
佐波江町
沖島の漁師が櫓船で往来していたのを覚えている。エンジン付きのものもあり、佐波江の砂を運んでいた。沈んだ船もあったようだ。父の時代は南郷の堰がなく、琵琶湖が浅かったので長命寺まで歩いたが、後に水位が高くなり、船で行くようになった。 55才
昭和23年頃 近江八幡市
八幡堀
瓦に使う土を田舟で運び、1人で前後に土を積み(天秤のよう)、上にあげていた。琵琶湖の藻を肥料にした土が瓦によい。八幡の瓦屋さんに運んでいた。10年くらい前から現在は、他所から土を購入している。
昭和25〜30年代 近江八幡市
円山町
エンジン付きの丸子船で屋根材料(ヨシ)を長浜方面へ運んでいた。4〜5月は瓦材料(土)を運んでいた。 60才代
昭和30年〜37年頃 近江八幡市
沖島
間知石を運搬していた。戦前は帆かけ船で炭、割木を運んでいた。間知石を満載すると水面が重木より上部まできて、恐ろしくなったことを覚えている。 49才
昭和30年代 近江八幡市 田んぼへ行くときや内湖での漁のときに使う。現在も使っている。 42才
昭和33年頃 近江八幡市
八幡堀
田舟が家にあり、八幡堀を櫓で漕いで琵琶湖に出て、シジミ取りや魚釣りをして楽しんだ。近所の瓦屋では、燃料の薪や材料の粘土を運搬していた。現在よりも堀の水は深かった。なつかしい思い出。 50才代
昭和34年頃 近江八幡市 当時、沖島に電話線を敷設するのための海底ケーブル(太さ10cmくらい)を乗せる船を探したが、近江八幡の方にはなく、浜大津にあった展示の船と同じくらいの大きさの丸子船を2隻借り受け、2隻つなぐ形で海底ケーブルを乗せて近江八幡から沖島までの電話線を敷設した。その時の詳細な情報はNTTの資料として電話局にあると思う。 70才くらい
昭和37年頃 近江八幡市
八幡堀
田舟に各家のし尿をもらって「たごけ」に入れ、上にワラを浮かして運ぶ。畑で採れた野菜と交換し、一日2回ほど運ぶ。「たごけ」は20ケほど舟に積む、3日に1度いって行った。
昭和37年頃 近江八幡市
水茎町
水茎町は内湖で(280ha)昭和22年頃より干拓が始まった。道は人の通る幅しかなかったので、米は田舟(全長10mくらい)で運搬していた。櫓でこいでいたが、昭和28年頃にはエンジン付きのものも出てきた。長命寺に行くのは、櫓ではちょっときつかったのでエンジン付きのものでお参りした。 65才
昭和40年前後まで 近江八幡市
祭りの時、近江八幡から長命寺へ船で出かけた。帰るとき、下流から上流へ漕ぐのがしんどかったな。今では想像がつかないほどのしんどさだった。「伊崎の竿飛び」も今のマイアミ浜から出かけていった。 70才くらい
3人
昭和40年頃 近江八幡市
長命寺港
祖父と父が丸子船の船頭をしていた。父が17歳の時に祖父が亡くなったので船を売却してしまったが、それまでは二人で近江八幡の長命寺港で、主に米を積み込み、帰りには薪を持ち帰った。輸送先は大溝や海津が中心で、長命寺港には6隻の丸子船が常時あった。水位が低いときは長命寺港で荷を降ろし、田舟に乗せ変えた。私は、20才まで漁師をしていたが、大中ノ湖と津田内湖の干拓で漁師では食べていけなくなったので転職した。その頃、丸子船は焼玉エンジン(2サイクル)を付けて航行していたが、1隻だけ帆かけの丸子船があり、八幡瓦の土を積んで堅田まで運んでいた。それが最後の帆船だと思う。とにかく近江八幡は、八幡瓦の関係で船の航行が多く、親戚中が船の船頭をしている時代があったという。 56才
昭和40年代 近江八幡市
まだ道路がなかった頃、水路を利用して田舟に乗って田んぼへ出かけた。田舟を2艘横につなげて平行に走らせ、片方には人が乗り、もう片方には農機具と牛をのせていた。 60才くらいの男性
昭和40年代 近江八幡市
丸子船運送
瓦の土を田から鋤で鋤の長さ分、四角に切り取り(重さ15kgくらい)、小船に積み、水路を使って琵琶湖に出て、丸子船に積み込んでいた。肩で担いだり、トロッコ経路で運んだり、丸子船、馬車、牛車などで運んでいた。湖北から薪、柴などを往復かけて運び、この薪、柴で八幡瓦を焼いていた。
48才
昭和40年代 近江八幡市
小田町
釣りをしたときに、田んぼの中の堀に田舟があった。父親の若い頃は、米、ワラなどを運んでいた事をよく聞かされた。田んぼに行くのは、堀から行っていた事が多かったらしい。 40才
昭和42年頃 近江八幡市
八幡堀を田舟が往き来していた。どの家にも1艘はあり、稲を積んだりしていた。今で言うリアカーの様なものだったと思う。能登川や近江八幡、稲江の方にはたくさんあった。 70〜80才代の
男性2人
昭和42年頃 近江八幡市
田んぼに行くのに使っていた。子供が魚釣りに行くときなどは、大人の人に乗せてもらった。子供だけで行くときは竿を使って行った。小学高学年から中学くらいだったと思う。また、守山市赤野井町の辺りではクリークだったので、10年ほど前まで使っていたと思う。 40才代の男性
昭和48年 近江八幡市
八幡堀
毎日、田舟に乗り、田植え、稲刈りなどに、また夏休みにはシジミなどを採りに行った。冬は魚釣り。毎日、田舟に乗って洗濯をした。水の透明度は大変よく、下にいる海老などがよく見えた。 63才
昭和52年 近江八幡市
長命寺港
中学生の頃、長命寺港に古い丸子船があり、荷物の運搬には使われていなかったが、沖島へカメラマンなどの人を運ぶために使われていた。カメラマンに頼まれて、島の裏の方まで運航しているのを見た事がある。帆船ではなかった。 35才の女性
昭和54年頃 近江八幡市 友人の漁師のお父さんがエンジン付きの木造船に乗せてくれた。大きさは展示の丸子船よりも小さく屋根はない。 30代後半
昭和55〜60年
頃まで
近江八幡市
牧町
(牧水泳場近くにて)
普通農家さんで、肥料など買ってもらった折り、その家は道路がなく、歩きまたは自転車くらいしか通れなかった。荷物(肥料他)などは私たちでは田舟と言って肥料代などに米を買ったことがある。その時その田舟で、約今で言う30kg袋を40袋くらい20俵80名を積んで運んだことがある。今では良い道路(湖岸道路)がつき、その家もそれまでは大変苦労されたことと思うが、今では世にでられたと主人も喜んでおられた。 52才
昭和60〜63年頃 近江八幡市
長命寺
動いていなかったと思う。つぶれかかって放置されていたように思う。その頃にすでに効用は知っていた。田舟は近くにあり、今でも魚などを運ぶのに使っている。 55才
平成5年頃 近江八幡市
水郷めぐり
素朴な木の船に5〜6人で乗った。とてもいい風景で、カイツブリらしきものも見られた。しかし、一つ残念な事は、船頭さんがくわえタバコをしていて、周囲に灰皿もないのでどうするのかと思っていたら、湖にポイと捨てた。それを鳥や魚が食べたら大変だと思った。 48才
現在 近江八幡市
牧町
田んぼへ行くのに、丸子船(展示品)の5分の1くらいの大きさの田舟を使っている。八幡堀も通っている。 70才代の女性
近江八幡市 琵琶湖の藻を肥料として使っていた。畑の土(黒くよく肥えた土)を鋤でブロック型に掘り起こし、それを丸子船に積んで、大津の瓦屋へ運んで行くのをよく見かけた。近江八幡の土は瓦を作るのに最適であった。 50才前後
近江八幡市 安土町在住の弟が、実際に昔丸子船を造っていた。自分も丸子船に乗った経験があり、沖島から八幡まで米俵だけでなく石垣などに使う石も運んでいた。 70才〜80才代
の男性
近江八幡市 子供の頃、家に丸子船があり使っていた。その当時、帆はなくエンジン(焼き玉)を載せて動かしていた。展示の丸子船よりもう少し大きかった。運んでいたのは薪だった。 50〜60才代
の男性
近江八幡市
八幡堀
八幡堀に入港しているのをよく見かけた。お米や畳などの物資を載せ、木之本まで運んでいた。 80才くらい
近江八幡市
八幡堀
子供の頃、お米や瓦の土を運んで大津まで行く丸子船をよく見た。自分の祖父などは、実際に丸子船に乗っていた。夏休みには、丸子船に乗せてもらって大津へ遊びに行った。荷物をいっぱい積むと水面が重木の上までくるので、船に水が入らないように、荷物を積むところにさし板を立てた。また、荷物を積んでいない時は、風で横に流されてしまうので、舳先の風下側へキリカジと呼ばれる小さな舵をつけて、流されないようにしていた。八幡堀辺りは浅いので、小さな船に乗り換えて何度か往復し、丸子船が荷でいっぱいになったら出発した。たいてい船頭は1人だった。当時の丸子船の資料があるので、また持って来たい。 70〜80才代
の男性
近江八幡市
八幡堀
焼玉エンジンの百石船で寝泊まりしていた。飲料水はその水を使った。塩津あたりから近江八幡まで、?の燃料を運んだ。瓦を大津、長浜港へ運んだ。 70才代の男性
近江八幡市
の港
母が若い頃、家の前辺りが港で、港に丸子船が着くと「丸子が来た」といって丸子船の船員さんを周辺の人達でもてなし、その間に荷物を降ろしたりしていた。 60才代