いつごろ どこで どんな様子でしたか 年齢
昭和10年頃 能登川町 小学生くらいの頃、展示してあるのと同じ様な船が塩や米などを運んでいて、船の荷物の積み降ろしを手伝った。船が着く頃に港に行って手伝った。風によっては船の到着が遅れた。櫓を漕いだこともある。帆は下ろすのに力はいらないが、上げるのはかなりの力がいる。手伝うとアメ玉などがもらえた。大中がまだ干拓されていない頃、その辺りはうみで、伊庭漁港、能登川浜漁港から近江八幡や沖島、大津へ塩や米を運んでいたと思う。終戦時分には陸上で、木炭車や木炭で走るバスが走っていた。丸子船は湖岸近くを航行しており、対岸への航行はなかったと思う。大中はアメリカ軍の捕虜によって干拓されていた。当時、伊庭に捕虜収容所があり、300〜400人の捕虜が収容されていた。この辺りの田は泥が深く、腰くらいまであった。大変肥沃で5年くらいは肥料なしで生産できた。伊庭内湖辺りに造船所があり、丸子船や田舟を造船していた。 69才
昭和10〜15年 能登川町 母の里が能登川だったので、毎年夏休みに来ては近所の友達と、大中の湖へ田舟に乗って魚つかみに行った思い出がある。自然を楽しめた頃。 69才
昭和17年頃まで 能登川町
乙女浜
8帖の蚊帳が吊れる船があった。型は展示している丸子船と同じで、湖西の方から土、守山石を運び(今の近江兄弟社病院辺りの底土)近江八幡へ土を持って行ったり来たりして、それで瓦(八幡瓦)を作っていた。新屋が船大工をしていた。 62才
終戦後 能登川町 田舟に乗って、開拓するための琵琶湖の測量をした。2年くらい乗り、櫓を漕ぐ様になった。
昭和20〜35年頃
能登川町
大中
安土城のまわりの小中、大中がまだ湖だった頃、畑や田に行くための田舟がたくさんあった。今は埋め立てられているが神社の裏に港があり、そこまで船が来ていた。そのそばの家の屋号を「港屋」と今でも呼んでいる。堅田にお墓を持っている人もいて、その港から堅田の方へ往き来もあった。 小中は戦後引き上げてきた人に土地を作るために埋め立てた。大中は膝くらいの深さで、一番深いところでも首くらいまでしかなかった。 小学校の中学年になると、親に黙って子供達だけで大中まで遊びに行った。シジミなども採れた。 真ん中は浅かった。風が強くなると舟を漕げず、湖の中に入って舟を引っ張って帰った。 川のセキの板を開け、水といっしょに舟を出した。 50才代の男性
昭和22年以前 能登川町
周辺
田舟で田んぼに行っていた。家を出たところの川に船があって、そこから行っていた。漁をする時はもう少し大きい別の船を使っていた。 60才くらい
昭和25年頃 能登川町 田舟を使って収穫した米やワラを運んでいた。村には水路がたくさんあった。 58才
昭和30年代 能登川町
福堂
今の田んぼは圃場整備も整い、車で農作物の運搬は楽に出来るが、昭和30年代頃は道路もなく、田舟で農業(稲作、麦作)の運搬をしていた。 47才
昭和32年頃 能登川町
栗見出
在家
湖に近い所に田があり、苗や籾殻を運ぶのに田舟を使った。水路は「堀」と呼ばれ3mくらいの幅があった。田舟を航行させるため、湖と堀の境に閘門があり、いつもは締めて水を溜めていた。8月1日の伊崎参りの日には田舟に乗り、その閘門を通って伊崎へお参りし、伊崎の竿飛びを見た。現在の竿飛びは8月の第一日曜日になった。 60才代の女性
昭和37年 能登川町
福堂
籾出しに、船で水郷を1kmくらい乗せてもらったことがある。現在水郷は埋め立てられ、水田になっているが、少しは水路も残っている。能登川風車村のあたり。 50才

能登川町
栗見新田
近江八幡から長浜へ、祖父が米や砂利などを運んでいたと母から聞いていた。 60才代の女性

能登川町
水車村
グラグラゆれた。水がもれそうやった。汚く古い。 小学生