いつごろ どこで どんな様子でしたか 年齢
昭和初期 西浅井町
塩津
割木、柴、お米をいっぱい積んで南方の近江八幡、彦根の方に運んでいました。風の吹く日には白い帆を上げて港を出る、その姿が今でも残っています。山と湖の中の船は本当に印象深いものです。太湖汽船で長浜まで通勤していました。朝4:30の便。およそ2時間くらいかかり、朝日が湖に上ってくる光景は今でも忘れられない。 86才
昭和初期 西浅井町 展示室と同じくらいの船に焼玉エンジンを付けて走った。焼玉エンジンは鉄の玉をバーナで焼き、燃料(重油)に着火、その爆発力で動力を発生させる。そのエンジンは1気筒だった。薪や炭を大津まで運んでいた。 70才
昭和初期 西浅井町
塩津
柴やら割木を運んだり、カネボウの会社が建設された際に石を運んだりした船に乗せてもらった。兄が操船していた。大津、長浜、彦根、堅田など、何日もかけて回った。夜更け、町の様子を大人達に連れられて見に行ったのが楽しかった。 78才
昭和初期 西浅井町 丸子船に薪(燃料)を積んで近江八幡まで行った。近江八幡の瓦職人に薪を売っていた様である。また、帰りには瓦の粘土を積んで塩津まで行き、近江八幡出身の瓦職人に売っていた。博物館に展示してある丸子船よりも、もっと簡単な造りであった。 60才代の男性
昭和10〜20年頃 西浅井町 丸子船がたくさんあった。割木や竹などを大津や長浜に運んでいた。 60才代男性
昭和11年頃 西浅井町
塩津
いつでも丸子船に乗って遊んでいた思い出がある。炭、米、酒などを載せているのを見た。炭を運んでいる時は、エンジン付きの丸子船で、少し家に立ち寄ってから大阪の方へ運んで行った。 68才
昭和13〜14年頃 西浅井町
塩津
かつてはたくさんの丸子船があったが、昭和13年頃には10隻位に減っていた。当時は焼玉エンジンで、早朝よりポンポンと音を出し各港へと出港して行ったが、私がよく乗せてもらった丸子船は、この展示室の船より一回り小さくて、長浜との定期便のような船だった。船には薪や柴を積み、帰りには、塩、醤油、干物などの食料品を積んで来ていた。荷物は前の日に積んで、翌朝、天候を見て出かけていた。近江八幡より瓦の土を運んできて、塩津で焼いてまた近江八幡へ持って行ったが、直接他の港へ持っていく事もあった。戦前は塩津にも沢山の旅館や問屋があり、とても賑わっていた。特に行商の人の往来があり、稲刈りの後、鍛冶屋さんが桑名から来たりしていた。 67才
昭和14年頃まで 西浅井町
塩津〜
大津
江戸時代からの漁師の家系なので、小さい頃から父、兄と共に丸子船に乗っていた。乗るのは3人、1人が帆と舵取りの役をした。昭和29年の水害の時は、水浸しの陸地も丸子で走った。積んでいたのは薪、鰊(肥料にするためのもの)、塩サバ、米。朝の2:00に出港した。風によっては1日で大津に着いた。2〜3日かかることもあった。こもを頭から被り、火鉢を囲んで暖をとった。 73才の男性
戦前〜後 西浅井町
塩津〜
浜大津
7年前に亡くなった主人が、戦前、浜大津からは野菜を、塩津からは米を輸送していた。戦後は「京阪丸」に乗っていたが、京阪丸は占領軍に没収されたため運送業をやめてしまった。 70才代の女性
昭和20年頃 西浅井町
塩津
帆のない丸子船を見た気がします。帆がなかったため、展示してある物とは少し違った様に思います。もう少し大きかった様に思います。ただあまりにも昔の事なので、よく憶えていません。 70〜80才男性
昭和20年代 西浅井町 実際に自分で乗っていた。展示の船とほぼ同じ大きさだが、もう少し屋根は高かったように思う。エンジン付きで2人ほどで動かした。近所の船頭から船を借り、大津を経由して伏見の稲荷神社へ丸子船でお参りに行っていた。その他、薪などの燃料も運んだ。 61才
昭和20〜23年 西浅井町
月出
10才くらいの頃、夏休みに帆の丸子船で近江八幡まで連れて行ってもらった。瓦焼き用の薪を運ぶ船。暗いうちに港を出て、日が出る頃に伊吹嵐が来て沖島の陰で休み、11時頃ニシ(西風)が来ると再び走った。
大津行きのこと:
私は昭和20〜23年頃、塩津〜大津川口(現、川口公園)まで薪、炭を運んだ。船は1気筒20馬力くらいまでの船で、風が出ると最寄りの港に避けた。2日ほど港に入る事はざらで、西風が1週間ほど続くこともあった。(夜 西 朝 ヒアラシと言った)普段は塩津〜大津を6時間ほどで行けた。船木の砂船は2気筒35馬力位で、ニシでも上っていった。
船頭の家は世襲が普通で、船頭は立木を山ごと買い、人に薪を作らせた。薪は一束12〜13銭(卸値)月5〜6回運んだが、冬は風の関係もあって、2回くらいだった。1回で1500束くらい運んだだろうか。利益は少なく、百姓もしていた。
三善丸の事を、大津の薪卸さんはミヨシ丸と呼んだ。塩津のT家(今も家屋はある)が蓮如の吉崎行の時、堅田から塩津まで船で蓮如を運び、蓮如が当時のT家の船にミヨシ丸と名付けたことに由来すると聞いている。その頃、T家に三人娘がいたのでミヨシと名付けたとか。
89才
昭和20〜38年頃 西浅井町
大浦
先祖から船乗りで、米、薪(1000〜1500束積んだ)、食料品などを運んでいた。船は10〜15tのポンポン船。燃料は重油で焼き玉エンジン。湖北の大浦から大津、近江八幡、彦根などへ行った。大津へは5〜6時間で行けた。大浦には11人の船乗りと3〜4人の船大工がいた。 69才
昭和23〜24年頃 近江塩津 目の前に展示してある船より一回り大きかったと思います。湖中に浮かんでましたが、だいぶいたんでいた様に思う。荷物も帆もなく、浮かんでいた様な気がします。
昭和24〜25年頃 西浅井町
塩津
母親から聞いた話。桑の苗を、開拓した山地に植えるため、大津〜塩津を輸送船(丸子船)で運ぶことになった。1ヶ月くらいで塩津に返ってくるとの連絡があり、待っていたところ2ヶ月近くかかって帰ってきた。天候不順というアクシデントもあって、桑の苗は全部腐らしてしまった。
昭和24〜25年頃 西浅井町
大浦
エンジン付きの丸子船(百石積だと思う)15〜16隻が港にあった。30年ほど前頃から、トラックや貨物列車に押されて丸子船は姿を消してしまったが、それでも雪で車などが走れない冬は、移動手段として丸子船に人が乗ることもあった。丸子船ではないが、湖北に「スキー船」と呼ばれる船があり、冬の間だけ永原スキー場、マキノスキー場へ行く人を運んでいた。船の名前は「白鳥丸」「弁天丸」。オールシーズン動いていた船が、乗客の減少で運行されなくなっていたもの(琵琶湖汽船)で、冬だけこのように使われていた。これも昭和24年頃。10才前後、中学生の頃、丸子船に割木を積み込む手伝いをした。1200〜1300束積んだ。一度に持てるのは4束くらい。他に柴も積んだ。戦後、割木の間に米(ヤミ米)を隠して売ることもあったが、見つかると逮捕されるので、危ないときは米を琵琶湖へ捨てた。捕まるくらいなら捨てた方がましだった。この時の丸子船もエンジン付き。朝4時、港(西浅井町)を出て、昼には大津港へ。5〜6時間かかった。草津、守山(木浜)、大津、彦根、長浜など、いろいろな港で積み荷を降ろし、割木や柴を燃料店へ売った。ヤミ米は密かに人に売ったが、ヤミ米などのチェックに一番厳しかったのは大津港だった。 60才代のご夫婦
昭和30年頃 西浅井町
大浦〜
山梨子
永原中学校に行っていた頃、伊香郡の運動会が木之本であり、その運動会に参加するために大浦から山梨子(木之本)まで船に乗せられました。その船は柴や薪を運んでいたと聞き、今日ここに来て、あれは丸子船だったのだと思った。昭和42〜43年頃、結婚して月出(西浅井町)に行ったときも丸子船が停泊していたのを記憶している。 50才代の女性
昭和30〜45年頃 西浅井町
菅浦
通学の途中に渡し船に乗り、菅浦−大浦間を通った。1週間に1日、菅浦より大浦まで船で渡った。 50才代の男性
昭和36〜38年頃 西浅井町
大浦
割木を積んだ丸子船が何隻も浮かんでいた。昭和17〜18年頃の、父親が描いた絵の中に丸子船と思われる帆掛け船の姿があった。 40〜50才代の男性
昭和38年頃まで 西浅井町
塩津
瓦の土を運んでいた。百石ぐらいのが3隻ありました。エンジン付き。 60才くらい
昭和40年代
西浅井町 この丸子船と同じくらいの大きさの船で、近江八幡から伊香郡西浅井町まで瓦作りのための田んぼの土を運んだり、出来上がった瓦を運んだりすることを仕事としてやっていた。 55才くらい
                    平成6年
西浅井町
塩津
塩津浜で丸子船らしき木造船が陸に上げられていた。今でも置いてある。 10才
西浅井町
湖岸
現在でも丸子船(小型)が湖岸に停泊していて見られるそうです。昨日北海道へ旅行し、「北前船」というのも見学してきた。北前船は北海道から越前海岸まで昆布を運び帰りに米を運んだりしていた。その形は丸子船に似ているが船底部分がもっと大きい。 60才代
西浅井町
塩津
塩津港では塩津海道を通り、米、昆布、塩を若狭から運んだ。塩津は船宿の集まる宿場であった。また、塩津から大津、彦根、近江八幡へ炭、薪、割木など燃料を運んだ。菅浦は昔、膳所藩領地だったので膳所のH家へ米(年貢)を納めに船で行った。今、焼玉エンジン(一気筒)なるものを探している。
西浅井町 椎茸作りのための木「ほだ木」を山で切って下ろし、丸子船で輸送した。尾上の最後の丸子船の所有者と、古くからの友人である。