いつごろ どこで どんな様子でしたか 年齢
大正末〜
昭和50年代後半
守山市
木浜〜
西浅井町
塩津
塩津から木浜へ行くときは割木を運び、帰りはエリの材料をのせて帰った。昭和50年代後半では後ろにエンジンを付けて走った。また、船の前にも帆を付けるところがあり(半分くらいの大きさ)風上に対して走るときは、その2つの帆を動かして操作していた。 80才男性
大正時代〜
昭和12年頃
守山市
矢島町
小さい頃、矢島には南川、中川、北川と三つの大きな川があった。水は大変きれいで、少しの間にでも、モロコや色々な魚が多くいて、手でつかまえる事ができて大変楽しい時代だった。その後も川を利用して田の仕事は船で行っていた事を憶えている。少し大きくなってからは、大津まで船で肥取りに行ったりした。冬の嵐で怖いこともあった。 80才
昭和初期 守山市
木浜町
木浜でタツベ漁を遊びでしているので、田舟を持っている。割木、炭などが北から運ばれ、エリのス(簾、こっちで編んで北へ持っていく)やウエ(筌、三代続いて作っている)を北へ運んだ。米25俵を積める船が多い。冬場の農閉期には更に船の数も多かった。今はFRPをはった船を用いている。 61才
昭和初期 守山市 守山から大津の方へ、お米を運んでいた。5人くらいが一つのグループを作って1隻の丸子船を所有していた。大津からは醤油などの生活必需品を運んでいたらしい。 60〜70才代の女性
昭和5〜28年頃 守山市
木浜町
私の乗ったのは田舟で、稲の穂運搬、米の運搬用だった。そして湖の漁業にも使われ、投網、サデ網などにも使われていた。その漕ぎ方も、櫓で漕ぐ場合、竿で押す場合と使い分けていたと思う。田舟の他に牛船もあって、田舟にそっくりだが形も大きく作ってあり、この船で農作業に使う牛を積んで川を渡って行っていた。 74才
昭和10年頃 赤野井〜
浜大津
昭和20年頃まで、汽船が赤野井港より志那中町を通り浜大津まで約1時間半かけて行っていた。5tくらいの船だった。船の中ではお菓子なども販売しており、船賃は当時小学生は5銭であった(鉄道は20銭)。また、水生植物公園のハスの花は、昭和20年頃、食糧難で蓮根栽培のため植えられた。 79才
昭和10〜13年頃 守山市
赤野井港
野洲浦港(現赤野井港)から1日5便くらい定期船が出ていて、それで父親(明治33年生)に連れられて浜大津へ野菜を売りに行っていた。赤野井辺りでは結構そういう人達がいたそうだ。季節ごとに採れた野菜を売りに行った。お客さんに直に売るので、その頃の方が喜びがあったように思う。お得意様もいた。今では店できれいに包装された野菜が買え、色々な面で便利になった反面、住み難くなったな。さみしいなと思う。 70才男性
昭和11年頃 守山市
赤野井町
おしんのように奉公に行くために、浜大津まで船に乗った思い出。琵琶湖汽船が交通の足となっていた。50人乗りくらいで、途中で温かいお芋を出して頂き、おやつを買って食べるのが唯一の楽しみだった。今の竹生島の遊覧船に似た小型の船だった。 73才
昭和12年頃 守山市
木浜町
当時、父親がコンロの製造会社を営んでいた。製造に必要な引き粉(木のくず)を、堅田のM造船所まで丸子船で買いに行った。エンジンは付いておらず、3人がかりで動かした。帆は付けていなかったように思う。大きさは展示の物と同じくらいだった。また、M造船所に川船を発注して作ってもらったこともある。それはスクリューを付けて動かしていた。丸子船同様、引き粉を運んだ。調子にのって動かしていたら、エリに突っ込んでしまったことがあり、えらく怒られた。 64才
昭和10年代 守山市
現在の
三崎
当時の
新田
(木浜?)
丸子船に乗るのは賃金が良く、あこがれの職業であったため、私の学年でも5〜6人は船に乗った。新田の燈籠は現在琵琶湖大橋に移してあるが、私の頃は新田にあり、その頃はすでに電灯で、2つの灯りが1つに見える所へ舵をとると港に入れた。新田では吉川あたりの浜砂を小舟に積んで、沖の丸子船に移し変え、その丸子船を5〜6隻まとめてポンポン蒸気船が引っ張り浜大津へ運んだ。昭和14年頃ポンポン船は交通機関でもあり、京都へ出るときは太湖汽船を使った。汽船は国鉄に乗るときは紺屋関で、電車(京阪?)に乗るとき浜大津で降りた。国鉄京都駅まで木浜から16銭、三条までは22銭かかったので京都駅へ出ることが多かった。 75才
昭和10年代 湖西〜
守山市
赤野井町
石屋さん(庭石などを扱うところ)が、石とその上に柴を積んで運んでいた。今はトラックで運んでいる。一緒に乗せてもらったことがある。窓のような木は、メイタと呼び、普段は外しているが波がきついときは、水が入らないようにはめ込んだ。舵の下の方の木には、ケヤキが使われていた。ヘサキの三角形の部分で寝泊まりしたことがある。その部分はここの船よりも広かった。 60才代の男性
昭和10年代 守山市
赤野井町
浜大津(川口町)に住んでいて、太湖汽船で赤野井まで来て田舟でよくダブガイ(ドブガイ)を採ったりモロコを釣って遊んだ。小学校の帰りには、尾花川の辺りでバケツにたくさんシジミを採った。柳ヶ崎では水泳をした。浜大津の辺りでは湖上に運ばれてきた材木が浮いていて、その上に乗ったりして遊んだ。 66才の女性
昭和12〜22年頃 守山市 唐崎参りへエンジン付きの丸子船で行き、バナナのたたき売りを見たのがなつかしい。守山から大津へ下肥を買いに、または米を売りに行った。湖西方面へ割木を買いに行った。地元で二人が持っていた。船への渡し橋が細くて米俵をかついで渡るのは大変難しかった。
昭和13年 守山市
赤野井町
父と共に田舟に乗ってコイ、フナなどの投網打ち(5〜6月頃)。今は河川の中にあると思う。その頃は魚も貝も多く、小さな子供の頃、川に飛び込み貝を採っていたのを思い出す。 66才
昭和13年 守山市
小浜町
漁や農、商に使用し、乗っていた。大きさは展示のものの4分の1くらい。守山の実家は現在もエリをもっており、現役の漁師をしている。 64才
戦前 守山市
今浜
現在の
ラフォーレ琵琶湖
あたり
野洲川から運ばれてきた土砂が、今浜あたりに推積し、その良質な砂や土を採取して丸子船に満載した。10〜20以上の丸子船をロープでつないで、ポンポン船(機械船)を先頭に浜大津まで、日和の日は毎日運行し風の強い日には船は出なかった。船はそれぞれ個人持ちで、1往復するだけでかなりの収入になった。砂はセメント用や庭の砂などとして、京都などに運ばれた。丸子船はすべて百石積以上であったが、土砂が重いため重木の上部まで沈み込んでいた。 80才の男性
昭和18年頃 守山市
木浜町〜
大津市
下肥を運んでいた丸子船(展示のよりも大きかった)に乗せてもらった事がある。大津の予科練(少年航空隊)まで行っていた。車で運ぶこともあったが、船の方が安かった。 81才
戦時中〜
終戦直後くらい
守山市
山賀〜
堅田、
安曇川
あたり
知り合いの人が、守山から湖西方面へ薪や石を丸子船に乗せて往き来していたそうです。湖西の方が山が近いので、木材や山の石などが手に入りやすく、それを自宅の守山の方まで運んでいた。当時、薪は燃料として大量に必要だったし、石は石垣や庭の石などに使った。ときどきは大津の方まで船で運送して売るようなこともしていた。 60〜70才代の夫婦
戦後 守山市
赤野井町
〜大津市
エンジン付きのポンポン船に乗った思い出がある。湖はきれいなので飲んでも良いと船の上からすくって飲んだ思い出がある。赤野井浜でドブガイ、モロコを採りに行った。野洲のマイアミ浜(吉川)へシジミ採りに出かけた。幼いときは川の柳の下にモロコやフナがいっぱいいたので、手捕まえをした。 54才
昭和20年以降 守山市
木浜
赤野井〜
大津市
浜大津
(紺屋関)
肥(肥料として)を運んでいたのを見た。炭、米、割木も運んでいた様だ。その他の船でも遠足に行ったり、医者に乗って来てもらったり色々利用した。守山の方には医者がいなくて堅田の方から船できてもらった。とにかく船はなくてはならないものであった。 72才
昭和22年 守山市
赤野井町
この丸子船よりももっと大きな船で、肥を大津辺りから桶6杯くらいを運んでいた。行きは空、または野菜などを運んでいた。船の中にも人が入れて暮らせるほどの大きさで、子供は先の辺りに追いやられていたらしい。 60才代
戦後 守山市 子供の頃、沖島から大津まで道路工事に使う石を運んでいたのを見たことがある。船内の後ろの方に船頭さんの炊事道具が置いてあり、「こんなとこでご飯を食べているのだな」と思っていた。常に2〜3隻で船団を組んで航行していた様だ。のんびりと陽気にしていた。
昭和24年頃 守山市
幸津川町
近所の人に乗せてもらった丸子船は、展示のものより少し小さめで米を運んでいた。その米は自分の所と、近所のものも引き受けて積んで行った。どこへかは不明。港は今の赤野井漁港より少し北で、漁船と丸子船が同じ港に浮かんでいた。 60才代の男性
昭和25〜30年頃 守山市
小浜町
父と一緒に田舟で魚を採りに連れて行ってもらい、モンドリに入っているヘラフナ(ゲンゴロウブナか)やカンゾウ(ギンブナか)と言う名の魚を採りに行きました。沢山入っているので、大変楽しかった思い出がいっぱいあります。家の前の川に各家の田舟があったように思います。幼い日の楽しかった思い出がいっぱいです。 58才
昭和25〜26年 守山市
木浜町、
美崎町

近江八幡市
中主町吉川

大津市
砂利や砂を運んでいた。個人持ちしていた家が近江八幡あたりにはたくさんあった。美崎町では機械の船に6隻くらい丸子船を連ねて運んだ。(近江八幡では帆を使っていた。)堅田では沈んでしまった船が何隻もある。琵琶湖も荒れると細かい波が一気に襲ってくるので、怖い目に何度もあった。琵琶湖をなめてかかると怖い。 70才
昭和27年頃 守山市
洲本町
野洲川が大雨で決壊した時に移動するために、船を用意しておいた。 60才くらい
昭和30年 守山市
木浜町
木浜−堅田間往復。木造船は自分の野菜と魚の交換、目の治療。船名は「平安丸」 50才
昭和30年頃まで 守山市
幸津川町
田んぼに行ったり、稲や牛を運ぶのに田舟を利用していた。母は嫁入りの時、田舟に乗って来た。家と家とを行き交うのにも田舟を使っていた。道はあぜ道くらいで細く、自動車の普及で水路が埋め立てられ、現在の道になった。 40才
昭和30年頃まで 守山市
小浜町
近辺
田んぼがドロ田のため、田の仕事をするのに田舟を使っていた。素足で田に入ると、足の付け根くらいまで泥に埋まるので、カンジキのような大きなゲタを履いて田に入っていた。田ゲタを履いて入ると、5〜6cmほどしか沈まなかった。しかし、片方の足でもう片方を踏んだりすると大変だった。ドロ田であったため田をおこすには柔らかく、案外やりやすかったが体力がいった。今は田を整備して水がぬけたので、そんな農業をする必要がなくなった。刈り取った稲を田舟に乗せて、押して運んだ。アゼにはハンノ木が植わっていて、横に竹を渡して稲をかけ干していた。早い稲と遅い稲があり、遅いのは11月3日頃までかけて干していたので、雪が降り、あわてて脱穀した事を思い出す。 70〜80才代の
男性三人
昭和30年頃 守山市
赤野井湾
から
大津
紺屋関へ
大津の民家から農業の作物(大麦、小麦、菜種)の肥料としての肥(し尿)をもらい、肥樋に入れてリヤカー(荷車)で港まで運び、丸子船に積み込んで赤野井へ。赤野井湾に着くと、ふたたび丸子船からリヤカーに肥樋を載せ換えて木浜の自宅へ帰る。一隻に7〜8人が利用した。主に冬期で月一回くらい。なつかしい思い出です。 67才
昭和32年頃 守山市 守山から大津へ下肥を取りに行くとき、野菜も一緒に持って行って売ってきた。田舟よりもう少し大きな木造船で行った。1カ月に1回くらい行っていた。野菜がたくさん採れた時は、1週間に1回くらい行った。 64才女性
昭和32年頃 守山市 ヒラタ舟を主に造っていた。最後に丸子船を造ったのは昭和30年頃。息子は、船に乗る仕事をしていた。昭和30年頃、守山から大津まで下肥(こえとり)や米を丸子船で取りに行っていた。当時はエンジン付きで帆はなくなっていた。船が、吉川港から大津間の唯一の交通機関であった。戦前は石(石材)を運んでいたが、仕事がなくなり戦後は米、野菜、肥を取りに行っていた。 100才
昭和32年頃 守山市
赤野井町
親がカモ猟師で、赤野井の辺りなどでトヤといって、身を隠すための屋根のついた木製の船に乗って猟をしていた。 45才くらい
昭和40年以前 守山市 牛舟の幅は1.35m
牛舟の方が田舟よりも幅が広い。牛が怖がって大変だった。牛を使っていたのはもっと昔の話。
田舟の幅は1m
守山、草津の辺りは水路が張り巡らされていて、水路が道路だった。区画整理後、労力は10分の1になったが、その分お金がかかる。昔は田んぼ仕事が本当に大変な仕事だった。
40才代
昭和42〜57年頃 守山市 20〜30年前まで機械なしで、15年前は機械(エンジン)を付けて砂利運搬船として使用した。丸子船はMさんに造ってもらった。よく働いたので足を痛め、丸子船に乗るのをやめた。 60〜70才代の女性
昭和48〜49年頃 守山市
水保町
区画整理ができる大正12年頃まで、田舟が使われていた。その後も稲刈りの時、湿地田の稲を運ぶのに使用。木浜町、今浜町は区画整理が遅れ、今から約24〜25年前まで田舟が使われていた。コンバイン、牛なども運べる大きさの田舟。田舟は、ほとんどの農家が堅田の船大工さんに作ってもらって持っていた。 69才
今でも 守山市
小浜町
近くで漁をするためや、半島の向こうの田に行くのに田舟のような船を使っている。遠い海へ漁に行く人達は、鉄の大きな船に乗っているが、老人達は櫓を漕いで今でも木の船で仕事をしている。 70才代の男性

守山市
幸津川町
〜木浜町
〜大津市 際川町
個人で米屋に売ったものを大津市まで送った。戦前まで1日20銭で生活できる頃に、米1俵の運び賃が3銭だった。木を燃料にした舟もあった。 80才前後

子供の頃
守山市
水保町
田んぼと田んぼの間の川に置いてあった田舟に乗って遊んでいた。今も家に置いてあって、子供が浦島太郎遊びをしている。 31才

守山市
木浜町〜
大津市
浜大津
自分では見ていないが、昔、親戚の人が木浜から浜大津までお米を運んでいた。船から転落して亡くなった人がいた。展示の丸子船を見て、親戚の人が乗っていたのは、こういう船だったのだろうかと思った。 70才前後の女性

守山市
木浜町
田んぼへ菜種や米を積んで行き来した。また、朝、洗濯物を積んで出かけ、琵琶湖で洗濯物を濯いでいた。田んぼ仕事をしている間、船を動かすのに使っていた竹の竿に洗濯物を干し、夕方帰るときに竿からはずして持って帰った。女の仕事は大変だった。 60才くらいの女性

守山市〜
大津市
百石積よりももっと大きな船で、長浜から大津に肥を運んでいた。後に、食料や燃料も運んでいた。櫓ももっと大きく八丁櫓(左右8本ずつ)を使っていた。 80才くらい

守山市
木浜町
周辺
少し大きめの田舟に牛を乗せ、人は別の田舟に乗り、竿で操作しながら田まで運んでいった。親が田で仕事をしている間に、田舟に乗ってよく釣りをした。少しの時間で夕食のおかずぐらいはよく釣れたが、内湖に落ちて命を落としてしまう子供も多かったため、親は田仕事をしながら子供の名前を度々呼び、返事がなければすぐに探しに行った。 70才前後の男性