いつごろ どこで どんな様子でしたか 年齢
明治時代 草津市
矢橋港
周辺
船で京都に肥料(肥)を買いに行った。大津、瀬田の辺りに野菜を売りに行った。船は丸子ではなく田舟だった。 70才男性
昭和2〜3年頃 草津市
山田町
子供の頃、友達と山田から田舟のような小さな船に乗り込んで琵琶湖に出たところ、台風のため流されて大津の方まで行ってしまった。どうしようかと仲間と相談した所、泣こうということになり大声で鳴き真似をしたら丸子船の様な大きな船がやってきて、山田まで引っ張って帰ってくれた。戦後はセタシジミの研究をしたり、琵琶湖の水質浄化のための活動をしたりと、いろいろしていた。 80才
昭和3〜13年頃 草津市
穴村町
2〜3歳の時カン虫が高かったので、母に連れられて穴村の墨灸を受けに行ったことがある。京都から京阪電車に乗り、浜大津に到着し、その後は汽船に乗って(矢橋港からだと思うが、北山田港であったかも)、下船してからは馬車に乗って穴村の墨灸屋さんへ連れて行ってもらった。また、自分が母親になってから次男のカン虫押さえに穴村へ連れていった。 60才代の女性
昭和5年頃 草津市
野路町
小学生の頃、矢橋の浜で水泳の訓練があり、その頃、田舟と呼ばれた和船が、事故に備えて見張っていた事を覚えている。近くの用水池で、田舟に乗って水泳を楽しんだことも、子供の頃の思い出として記憶に残っている。 78才
昭和5〜6年頃まで 草津市
津田江港

烏丸半島
の入江
水がきれいで底には魚や藻がいっぱい生えていた。子供の頃、水泳にグループで津田江の農家で田舟を借り、沖にでて泳いだ。琵琶湖汽船(昔は太湖汽船)が大津から赤野井まで通っていた。大津方面への通勤者が利用していた。この汽船の穴村から杉江までのコースは、烏丸半島の東側の掘割を通っていた。 73才
昭和5〜6年 草津市 小学校1〜3年の頃、竿を使って田舟で田んぼへ行き、ひとりで釣りをしたりしていた。また、家のそばにこの百石船くらいの丸子船が堀を入ってきて、米や肥を運んでいた。大津の方から肥をもらって、お米などと交換していたのではないか。 60才代の女性
昭和初期 草津市
山田町
展示してある船で、父や叔父さん達が特産の山田大根をいっぱい積んで、対岸の大津の疏水入口まで運んでいたのを幼年期(5〜6才)に経験している。子供心にとても大きい船だとの印象が今でも強く残っている。 78才
昭和初期 草津市
南山田町
長さが少し短かった。昔、レンガ会社があり、レンガを運んでいた。 73才
昭和10年代頃 草津市
下笠町〜
大津市
下笠から大津まで田舟に乗って行ったことがある。その頃は野菜などを積み、その野菜と交換に肥をもらっていた。お金を払ってまで肥をもらった事もあった。田舟が湖の中央辺りに来ると、木の葉のように揺れ、とても恐い思いをした事がある。 70才前後の女性
昭和13年頃 草津市
下物町
丸子船に住んで生活している人々がいて、乗せてもらったことがある。その頃、湖岸道路脇に残っているお堂の横の水路を観光船やらが走っていて、とても賑やかだった。 70才くらいの男性
昭和13年頃 草津市
山田町
丸子船を使って、運送業を営んでいた。草津から大津へはお米を、帰りには醤油、お酒を運んでいた。1日がかりだった。使用していた丸子船は、展示物の3分の2サイズ。休息する所は前の方にあった。昔からの言い伝えで、堅田に湖族がいたため、それから護衛するのを目的に金儲けをしていた人もあった。
昭和13年頃 草津市 昭和28年頃、矢橋の辺りで丸子船やヨットもたくさん浮かんでいたのを子供心にぼんやりと憶えている。 70才代の男性
昭和13年頃 草津市
北山田〜
近江八幡市
長命寺
田舟を櫓で漕いで長命寺まで、貝、タニシを売るために採りに行った。タニシは、釜蒸しをしたり醤油や砂糖を入れて甘辛く炊く。 74才
昭和13年頃 草津市
矢橋〜
大津市
10月10日に、矢橋から大津祭を見に行くために船に乗って出かけた。風が強かったため波が船の中まで入った。皆が一張羅の服を着ており、波のかからない方へ全員が逃げたため、船がバランスを失って転覆し大勢の犠牲者が出た。親が亡くなったり、子供が亡くなったりして、10年くらい前50回忌を済ませた。 70才代の夫婦
戦前まで 草津市
下物町
お盆になると下物から湖西(堅田?)までご馳走を積んで運んでいた。また、大津、京都、大阪に広告を出して、屋形船や田舟、丸子船を総動員してお客様の接待をし、多いときには110人の人がやって来た。その時のおかずは漁で採れたコイやフナを出した。 70才代の女性
戦前 草津市〜
大津市
浜大津港
膳所公園
周辺
田舟で大根等の農作物を積んで大津や京都まで売りに行き、帰りに下肥をおけに6杯くらいもらって船に積んで戻ってきた。自分の家の肥だけでは足りなかったので、契約を結んで月に2回くらい取りに行っていた。一家に一艘こういった船があり、必要不可欠な物だった。 70才くらいの男性
戦前〜戦後 草津市
下物町〜
烏丸半島
一帯
昔、烏丸半島の辺りに養魚場があり、そこのおじさんが田舟で渡し船を出しており、烏丸半島まで牛と一緒に渡してもらい、田んぼへ仕事に出かけた。この辺りには360反の田んぼがあった。田舟は二艘舟にして牛を乗せた。牛が舟に乗るのを怖がり大変だった。 63才
戦前〜戦後 草津市
志那町
草津の志那から大津へもち米を運んだ。正月前くらいに契約をした。大津からは下肥を積んで帰った。櫓は4丁あって4人で交代しながら操縦し、一人は船の中で休憩した。米はかますに入れて運んだ。戦後何年かしてから、エンジンを付けた。丸子船の隣の船が下笠の藻取り用の舟の様だ。 75才くらいの男性
昭和16〜18年頃 草津市
下物町〜
大津市
堅田
昭和17〜18年頃、堅田の漁師が六丁櫓と呼ばれる大きくて長い櫓で、6人がかりで漕いでいるのを見たことがある。焼玉エンジンを搭載している船もあったが、堅田や坂本の漁師は力強く櫓を漕いで漁に出かけていた。結構速かった。大きさは展示室の丸子船と同じくらいだった。昭和16年頃、自分も田舟にエンジンを付けて琵琶湖に遊びに出かけた事がある。 71才の男性
昭和17〜32年頃 草津市
下物町
戦争中、若くして未亡人になったため、男性に混じって船に乗り下肥取りに大津まで行った。展示室のハリ船よりひとまわり大きい船で、真ん中に肥桶をいっぱい積んだ。下肥取りは、ほとんど男性の仕事であったが、重い桶を荷なって大変苦労した。下肥との換品は米であった。田へは田舟で肥桶と、時には牛を乗せてクリーク地帯の田をまわった。牛を田舟から田へ降ろす時は苦労した。降りるのに失敗して骨折してしまった牛を見た事がある。残念ながらそうなった牛は使い物にならず、かわいそうな事に…。 80才
戦後 草津市
矢橋町
戦中から戦後頃まで、矢橋の入江に丸子船の壊れたものがつながれていた。上半分位しか浮かんでいなかったが、上には草がはえていた。
大津市でも宇治川に近いところで、子供の頃は夏になると田舟で瀬田川に行き泳いだりした。岩の上から飛び込み向こう岸まで友達と泳いだ。結婚して矢橋に来たが、矢橋の女性達は男性と同じように、田舟で大津や膳所のあたりまで肥などを買いに行っていた。
50〜60才代の夫婦
戦後まもなく 草津市
烏丸半島
戦後、小学生の頃、守山から田舟に乗せてもらい水生植物公園横のハスの群生している所まで来た。そこで船から下り、ダブ貝(ドブ貝)を足で採って楽しんでいた。水深は子供の肩くらいまであって、立って足で探りながらドブ貝を見つけると潜って採った。ドブ貝は湯掻いて、切干大根と一緒に煮るとおいしかった。子供のころの楽しい遊びの一っだった。 60〜70才代の夫婦
昭和25年頃 草津市
志那町
村で持っていた丸子船を使って1ヶ月に1回、大津まで肥を運びに行った。船は古くて帆はなく、エンジンを積むにも古すぎて装備できなかった。3丁櫓を使い6人で運んだ。右と左3人ずつ、若い者が舳先に乗り曲がりくねった川を操縦して行った。舳先の者は櫓を突っ張る力が要る。朝2時頃、暗いうちに出て、30分くらい川を下り志那の閘門まで着き、そこから大津へ向かった。船は農協のトラックが使われるようになって廃船。今は村の作業場の屋根裏に舵だけが置いてある。 70才くらい
昭和22年頃 草津市
常盤町
農家が持っている田舟とは別に、自治会で丸子船を1隻持っており、交代で大津までし尿を取りに行っていた。年末頃にはお礼にもち米を持って行ったりしていた。大きさはこの百石船よりも、もっと小さかったと思う。 65才の女性
昭和22〜23年頃 草津市
北山田
周辺
北山田からエリの側まで漁師さんの船に乗せてもらったことがある。その頃は水は青く透き通っていて、顔を洗ったり手で水をすくって飲んだりもした。また、湖岸近くの柳の木の根本が水に洗われていたが、モロコが産卵のためいっぱい集まってきて真っ白になっていた。手でいっぱいすくえた。時には堅田の方まで行ったことがあるが、帰る時、櫓を流し、高い波に船がクルクル回され、筵をかぶって必死で船の先の方につかまっていた。また、船に水がしみ出してきたので、蓑の棕櫚で穴をふさぎ、水をかい出して帰ったこともあった。子供心に本当に怖かった。山の人間だから淡海が好きだったのかもしれない。 50〜60才代の男性
昭和23〜33年頃 草津市
志那町
子供の頃、展示のものよりもう少し小さく、先の方があのデザインの船が、漁用に使われていた。また、田舟も使われていて、よく田んぼへ行くのに道具などを積んで行ったものだった。 50才代の女性
昭和23年 草津市
南山田〜
大津市
学校に通うのに時々乗って通っていました。学校の始まりに間に合わなかった時があった。 60才代の女性
昭和25年頃 草津市
周辺
小学生の頃、京都に住んでいて、一年に何度か大津港からポンポン船に乗り石山寺に参詣。また船に乗り、草津の北山田港に降り墨灸というお灸を買いに港から馬車に乗っていった。水路などに木造船があった。 60才代男性
昭和20〜30年代 草津市
山田町、
下笠町
田舟はどの家にもあったと記憶している。釣りに行ったり、野菜を浜大津へ売りに行ったりした。船の周りはいつも子供の遊び場になっていた。灌漑用ため池(養魚場)にも田舟が常時浮いていて魚の様子を見たりした。
京都へ勤めに出ていたが、草津から大津までいつも田舟にのせてもらい京阪に乗り換えて通った。あの頃は気軽に田舟に乗せてくれる人がおった。
60才代の夫婦
昭和25〜30年頃 草津市
新浜
船は展示されているハリ船と形も大きさも殆ど同じである。船は刈った稲やヨシ(家の屋根をふくため)を積んで運んだり、膳所まで米や野菜売りに、または下肥を買いに行くのに利用した。また、藻を刈り取る作業もした。昭和25年当時の焼玉エンジンは、なかなかエンジンがかからなかったり、エンジンだけではおぼつかないので船に櫓も積んでいた。帰りの船は上流まで岸づたいに入ってから、下るようにして新浜へ帰った。新浜まで直接帰るのには、流れが急すぎたためである。 54才
昭和26〜36年頃 草津市
下物町〜
中主町
マイアミ浜〜大津市
浜大津
展示の丸子船と同様の大きさ(百石積)で、当時は焼玉エンジンで航行していた。船には砂やバラスを積んでいたが、下物の港より空の船を現在のマイアミ浜あたりまで運び、良質の野洲川(北流)の土、砂を浜大津のSバラス(現在)とY砂利(O組の下請)まで運んだ。冬〜3月にかけては季節風が強く、航行中は何度も危険な目にあった。特に現在の琵琶湖大橋辺りから北風が強まり、波も高くなった。三角波が立ったのである。小型船は波に翻弄され、転覆する事があったが乗っていた。丸子船は大きかったため転覆する事はなかった。重い砂利を乗せるため、喫水線が水際ギリギリまで下がるので、軍艦のように舟板で砂利を覆い水が入らないようにしていた。当時は、まだ船で運ぶ方が効率が良く、5tトラック4台分が乗った。波を受けるヘサキが長いほど安定していた。樹齢100年の木で作った木造船は、100年もったものだ。現在は下物にHという木造船所が1軒残っていて、水郷めぐりの和船を作っている。木造船が沈んでも木は浮かぶので、木につかまって助かったが、プラスチックは比重が高いため沈んでしまい、助かる事が少ない。
昭和30年頃まで 草津市
下笠町
大津市場へ野菜を運ぶため、週1回和船に乗った。調子がいい時は1時間ちょっと、だいたい2時間ほどで着いた。天候が悪く風向きも悪い時は昼出て、夕方着くことがあった。家に大抵1舟か2舟あった。牛や耕運機をのせて田んぼ仕事をし、肥料の藻を採りに行った。船大工は村に3人ほどいた。今は真珠を作っている人が使うぐらいになってしまった。
昭和30年代前半 草津市
矢橋町
付近
田舟で田んぼまで行って、稲の収穫なども船で運んだ。大津まで木造船に5人くらいが相乗りし、今でいう遠泳のようにして泳いだこともある。矢橋と大津の競艇場の中間位に浅瀬があり、深さは胸くらいしかなかった。琵琶湖から砂を取るようになったので、浅瀬がなくなったのだと思う。 男性
昭和32年 草津市
下物町
下物の田舟農家には一軒に2隻の田舟、大船と小船があった。大船には牛や稲ゴキを乗せたり、稲ワラを乗せたりした。大船、小船(5人くらい乗れる)を結んであっちこっちの田へ回った。2隻の船が離れないように竿を横にさして航行したが、大船小船のヘサキを合わせて横並びになって進むこともあった。また、大船には水車(みずぐるま)を乗せた事もある。水路より田の方が高いため、水車を朝、漕ぎだし、昼までかかって水換えをした。田舟であっちこっちの田を回ったが、船には昼食用のお弁当やヤカンを積んで、昼食時、田んぼでお茶を沸かした。耕作用の牛には乳牛を使っていたが、家によっては黒牛を使っていた。しばらくして水車が発動機に変わったがそれも田舟に積んだ。
昭和32年頃 草津市
津田江、
下物、
吉田
家の裏には川があり、田んぼまで水路として続いていた。川戸が家の玄関のようなもので、田舟で脱穀の機械類まで運んでいた。機械類を船に乗せるときは、船の上に板を渡して積み込んだ。船から田に上げるのが難しく、船がゆらゆら揺れないように竹竿で踏ん張るのが子供の仕事だった。 50才くらいの女性
昭和34年頃まで 草津市
山田町
田舟でよく下肥を買いに出かけていた。1回に20〜30個の桶を運び、月に1回以上出かけた。大津まで船で、大津から京都まで車。結婚後、昭和34年頃までは下肥を買っていた。 70才くらいの女性
昭和35年頃 草津市
北山田、
烏丸崎
もう動いてはいなかったが烏丸崎の辺りで丸子船を見かけたような気がする。田舟では北山田や草津川河口で遊んだ記憶がある。ハス原の中にも入り込んで遊んだ。田舟は肥などを運ぶのに使われていたように思う。 40才くらいの男性
昭和35年頃 草津市
矢橋町、
烏丸半島
帆ではなく、焼玉エンジンの丸子船に乗っていた。大きさは展示の船と同じくらい。荷物(米、炭など)といっしょに人も運んだ。長命寺参りによく行った。漁師をしていて船の通るのを見て時刻を知った。正確だった。展示の櫓は自分が使っていたものよりも短い。 70才くらい
昭和37〜38年頃 草津市
志那町
当時、近所の人が田舟を所蔵しており、家の前の川で何回か近所の子供達同士で拝借して乗らせてもらったことがある。竹竿(3m以上)で、川の底を突きながら操縦し、川を進んでいったことがなつかしく思い出される。その後2〜3年で、一隻も見かけなくなってしまった。川も今ではなくなってしまい、とても残念な気持ちだ。 44才
昭和38年頃 草津市 牛、耕運機などを積み、田んぼ仕事を手伝いに行った。その頃は一家に一舟、田舟を持っていた。耕運機を田舟に載せたり下ろしたりするとき、川にはまってしまう事もあった。ちなみに今の草津市になったのは昭和33年。草津町、常盤村、志津村、老上村、山田村など1町5村が合併した。
昭和30年代後期まで 草津市
志那中町
田舟で家から田んぼまでの2kmを約30〜40分かかった。稲刈りをし、刈り取った籾(玄米)の運搬用に使った。田舟に発動機エンジンを積んでバーチカルポンプで田んぼの灌水にも利用した。昭和30年代後期で、田舟による運搬利用は終わった。運河に船を入れた後水門を閉めて琵琶湖側に船を移動させ、琵琶湖側の水門を開けて琵琶湖へ。この辺りの農家それぞれがこの運河を使って移動していた。 68才
昭和40年 草津市 父親が農業を営んでいたので、田舟とエンジン付きの木造船の2隻を所有していた。田舟では米を運んでいた。木造船は主に下肥を買いに行くのに使っていた。航行したのは草津から大津まで。25年前の耕地整理の頃まで持っていたように思う。 42才
昭和40年頃 草津市
北山田
大きさは展示の丸子船の1/2〜2/3くらい。ダテカスガイもありエンジン付き。父が漁船として使用しており、長命寺辺りまで貝(シジミ、ドブカイ)を採りに行っていた。行きは「横の戸」をはずし行き、帰りは貝がいっぱいになって戸をはめた。船に乗せてもらって泳ぎにも行った。農業もしていたので大津に肥(野菜と交換)を取りにも行った。大津までは約1時間くらい。琵琶湖総合開発で湖周道路ができ、ヨシ原が減少し魚、貝が少なくなって漁師は1/50くらいしか存続できない(漁業補償もあり)。兄も漁師で、おじいさんの頃は帆船だった。丸子船の材料や道具は明石まで仕入れに行っていた。 51才
昭和40年頃 草津市
志那町
昭和39年に嫁入りして志那町に来た。当時は、田舟を使っていた。それから5〜6年後に水路や田が現在の様になり、田舟は使わなくなった。その頃はただフネと言っていたが、今考えると田舟と同じもの。 60才代の女性
昭和40年代 草津市
吉田
田舟が水路にたくさん浮かんでいたのを覚えている。乗ったことはない。 38才
昭和43〜53年頃 草津市
下笠町
今から24〜25年くらい前まで、どの家にも田舟が2艘ほどあり、田んぼへの往き来に使っていた。今は、農免道路ができてきれいに整備されているが、当時は道路もなく大変だった。野菜など取れたものは、船に発動機をつけて浜大津の方へ売りに行った。帰るとき、霧が出たりすると目印がなくて大変だった。小さな頃は時々連れていってもらった。 50才代の女性
平成8年 草津市〜
長浜市
漕ぐのが疲れた。学校でフローティング。先生と行った。1つの船に10人くらい乗ってオールを漕いだ。 11才
道路が出来るまで 草津市
下物町
烏丸半島
常盤村(下物)からこの烏丸半島まで、田舟を使って田んぼをしに来ていた。牛は船を2艘つないで乗せた。牛がいやがって足の骨が折れたりした。雨が多く降ると植えた稲が水に浸かり、よそから余った苗を分けてもらって何度も植え直した。稲刈りの頃、雨の多い時には船から直接稲の穂だけを刈った。また、重い稲穂が垂れて水に浸かるのを恐れ、4〜5束ずつ稲をくくり真っ直ぐにしたりもした。田植えの時も足の付け根くらいまで泥に浸かり、モンペがとても重く大変だった。1日で田に水を入れるときはここの展示にある様な足踏み式のもの(水車、みずぐるま)で水を入れた。大変力がいって疲れたら、ハイ次という様に他の人が代わって足踏みをした。若い母親は、お昼にお乳を与えに帰るのに烏丸半島と下物との間の川を渡してもらわないと帰れず、大変な思いをした。その頃、お金持ちの農家は良いところに田や畑があり、貧しい人達が一番遠い条件の悪い田だったため大変な苦労があったが、今は半島が売れ、お金持ちになり生活が反対になった。明治生まれの祖父達は大変だったが、今の子供や孫達は楽な生活だと思う。 70才代の女性2人
草津市
下笠町
琵琶湖の水草を丸子船で畑へ運び、ネギの肥料にした。 52才
草津市
南山田〜
大津市
実際にこの展示と同じくらいの丸子船によく乗っていた。布団を敷いて寝たり、ご飯を炊いたり生活の場になっていた。重木とたなの境目の黒い線くらいまで水に浸かっていたので、波があるときは横の戸板を閉めて船内に水が入らないようにした。積んでいた荷は主に瓦とレンガ。家(南山田)の近くに瓦屋さんがあったのでその関係。 70才代の女性
草津市
北山田
戦後買った北山田の田舟。冬はカラスガイ、ダブガイ(ドブガイ)の貝採り、夏は砂取りに使った。総マキの長さ12mの舟がある。今も持っている。エンジンで動かしていたが、今はエンジンをはずして飾っている。屋敷の横に溝を掘って置いている。北山田には船大工が二人いた。 60才くらい