いつごろ どこで どんな様子でしたか 年齢
昭和初期〜 彦根市
愛知川〜
大津市
愛知川から大津に向けて、川砂利を運搬していた。実際に丸子船に乗船していた。4人乗りで前後に2人ずつ分かれていた。大津港に着くと、この4人で砂利の荷を降ろした。川砂利運搬専門の仕事として丸子船を使用し長年勤めた。 88才
昭和10〜15年頃 彦根市
松原町
湖西方面から瓦を焼くための粘土を運んで来ていた様に思う。その頃には焼玉エンジンが付いていた。ヒラタ舟では刈った稲を積んだり、ヨシ刈りに行ったりした。最近はもう見かけない。 60才代後半の男性
昭和10年代
犬上郡彦根町
だった頃
(彦根市になったのは昭和12年4月1日)
彦根市
松原町
百間橋
付近
丸子船による砂利運搬、天秤の上げ下ろしを見た。その頃の船には帆がなく、舵が小さかった。彦根と米原の間にある弁天さんまで、田舟で行けた。関東大震災の日は琵琶湖も荒れて、接岸するのが難しかったと母から聞いた。 69才
昭和10年代 彦根市
松原町
5〜6隻の丸子船が停泊していた。当時の 船乗りは風が頼りなので、景色を見て自分の判断で操縦した。難破した船もあると聞いている。 当時、彦根では瓦の製造が行われており、丸子船は安土よりその原料の土を運んでいた。また、 家が農家だったので、田舟を使っていた。当時は道路よりも堀(水路)が多く、米や野菜の運搬に 使っていた。彦根に丸子船に乗っていた94才くらいの方がいる。74才の男性
昭和12年彦根市
稲枝に
ある港
愛知川の
デルタ
地帯
同じ集落にB兵衛さんという船頭を していた人がいました。今から思えばこの展示室の丸子船より一回り小さい船で、確か帆船で あったと思います。B兵衛さんは今でいう兼業農家で、牛の売買もしていましたが、普段は船で 八幡通いをしていました。近江八幡の伊崎山の柴の入札をして売買していましたが、 その頃は婚礼や葬式となると(自宅で料理を作ったので)たくさん柴を必要とするので、それを 商売としていた様です。当時、近所ではシジミなどの貝曳き漁が盛んで、貝曳きの船を たくさん見かけました。貝曳き船は田舟より大きく、船首と船尾は少し反り返っていたと思います。 70才代後半の老夫婦
昭和12年頃彦根市
稲枝
小学校の頃、停泊している丸子船に乗って よく遊んだ。屋根をはずしてある船の縁を通ったり、夏には丸子船の下を縦方向に潜水し泳いだり して叱られたものだった。自分より年上の人は帰る丸子船に乗せてもらい、沖合い500mくらいから 湖に飛び込んで岸まで泳いだりしていた。丸子船は操縦が難しく、櫓を漕ぐのに勢い余って湖へ 落ちる船頭さんもいた。(櫓を漕ぐ場所が船の縁に近いため)普段は、よく田舟に乗って利用した。 圃場整備で水路がなくなるまで、彦根の薩摩町で使っていた。田んぼの水も田舟にバーチカルポンプ を乗せて水路から入れていた。当時、丸子船と同じ型で造った漁船があって、地引き網に利用して いた。大きな親船2隻に網を縛り、魚を捕っていた。 60才
昭和12年頃 彦根市 砂糖、塩、炭を運んでいた。沖島辺りから運んできていた様だ。子供の頃だったのであまりよく憶えていない。 70才代
昭和13年頃 彦根市
稲枝の
ヤナ川
展示の丸子船より少し小さいくらいの漁船で 地曳網を引き、地曳網の周りに田舟を並べ、網から飛んで出る魚を採ったりした。また、村の子供達は 学校を休んででも、カゴなどを持って魚をもらいに行った。漁船も帆を用いており、エンジンは なかった。1回で100貫の水揚げがあった。100貫とは尺貫法の重さではなく、大きな網で100回 すくったものを100貫と呼んでいた。 78才の男性
昭和13年頃 彦根市
周辺
この様な丸子船で砂利の運搬の積み込みを手伝っていた。その砂利とは、浜辺(彦根)で自然に洗い磨かれた粒ぞろいの小石だった。用途は定かではないが、おそらく建築用に使ったと記憶している。また、東海道線の線路を敷くにあたって、かなりの砂利を長浜港まで運ぶために、丸子船が活躍していた。 70才代の男性
昭和13〜23年頃 彦根市
彦根城の
彦根城の堀(今は埋め立てられている)に丸子船が入っていて、大きな袋に入れられた繭が積んであった。その丸子船でよく遊んだ。当時は彦根の大きな家には、繭蔵も多くあったが、繭をどこへ運んでいたかは分からない。 70才代の男性
昭和13〜34年 彦根市
三津屋町
荒神山の琵琶湖よりのふもとに沼があった。当時、田舟で田んぼや山へ行き、刈った稲や柴を運んだ。ヨシも群生していた。そのヨシも簾にしたり、屋根ふきなどに使われていた様に思う。なつかしい幼少の思い出。 61才
昭和14〜24年頃 彦根市
松原町
10才の頃、住んでいた所に造船所があって、たくさんの船が置いてあり、その船に乗って遊んだり、漕ぐ真似事をしては叱られたものだった。また、家の風呂の燃料に、船を造る時にできる木くずをもらって来て使っていた。桧や杉など贅沢な燃料でお風呂を沸かしたものだった。 70才代の男性
昭和15年以前 彦根市
松原内湖
家の裏庭まで湖があって丸子船が泊まっていた。家は料亭をしていた様でお客様を対岸から丸子船に乗せて運んでいたらしい。展示の船より小さい。船着場に石段があってお客様は石段を上がって庭を横切って来ていたらしい。兄が朝日新聞社に勤めていて、家の近くで丸子船が写っている明治の頃の写真があったのでもらってきた。 70才
昭和15年頃まで 彦根市 湖岸に停泊している丸子船らしき船から、水の中へ飛び込んで遊んだ。また、家の周辺には水路がたくさんあって、一家に一艘は田舟があり、よく漕いで操作していた。 60才くらいの男性
昭和15年 彦根市
周辺
沖を行く船では王者の風に感じた。幼少の頃、祖父に何の仕事をしているのかと尋ねたところ、丸子船でたくさんの荷物を積んで塩津から大津の方へ向かうと聞いた。塩干物から米を運んだようだ。まだ当時は海運も盛んで、大小の船も行き交い、琵琶湖を小さな湖の様には思わなかった。琵琶湖を「うみ」と呼んでいた。私達は琵琶湖岸に住んでいます。少年の頃からお天気がよいと沖の方で静かに浮かんでいました。 66才
昭和15〜25年頃 彦根市
愛知川
周辺
愛知川の下流、出在家村(現在は彦根市にある)で、焼玉エンジンを付けた丸子船を見た。米や麦、菜種の実などを積んでいた。当時は、沖島、竹生島辺りの水もきれいで、謡にもうたわれている様子そのものであった。また菜種がらが出来ると、季節は蛍を見る頃になり、のんびりと風情のある時代だった。丸子船の帆には家紋や屋号が付いていた。 71才
昭和15〜25年 彦根市
須越町
大川
野田沼
少年の頃、5月から8月の中旬にかけて水田に水を入れるため、田舟に水車(みずぐるま)を乗せて運んだ。水車を田の水口に固定し、その上に人が乗って歩くようにして車を回し田に水を入れる。田舟の長さは2間半くらいだった。 60才
昭和15〜25年 彦根市 港に丸子船が何隻かあった。帆柱はなく焼玉エンジンを付けていた。舵も小さかった。彦根から大津などへ米や荷物を運んでいた。人も乗せ、遊覧船もしていた。船の全長は展示の船くらいで、幅はもっと大きかった。 70才くらいの男性
3、4人
昭和15〜30年頃 彦根市
甲崎町
百姓の水路(川)で、家の前から田んぼへの往来に、5月には苗を、秋には籾などを積んで田舟を利用していた。 69才
昭和17年 彦根市
松原町
長命寺から松原まで石や割木、瓦の土を運んでいた。彦根にも瓦屋があり近江八幡の田んぼの泥土が瓦の土に良かった。Sさんという石船屋さんがありました。廃れていくと観光船になり松原から長命寺まで遊びに行った。その時の丸子船には焼玉エンジンが付いており、船の中はゴザが敷かれ50〜60人が座って乗った。朝8時頃に松原港を出ると長命寺には昼前に着いた。普段、田舟には乗っていたが、大きな船に乗ることは滅多になかったので、会社の慰安旅行で丸子船に乗るのが嬉しかった。親の親元が船大工をしていた。船屋という細長い家で湖に向かって勾配がつけてあり、完成した船を湖にスルーと出しやすくなっていたのを覚えている。 80才
終戦後くらい
から自動車が
出てくるまで
彦根
松原町
回転橋

近江八幡
小さい頃から田舟に乗り魚採りや水泳をしました。父は田んぼへ往き来していました。また、浜で砂や砂利を採っていた様です。一番の思い出は花火の日、夕方早くから家族や近所の人達を乗せて琵琶湖に行った事を覚えています。竿と櫓を漕ぎながら暗いなかをスイスイとどこにも当たらずに。その経験からでしょうか、私も櫓を漕ぐ事が出来ますが、なかなか田舟に乗る機会がありません。魚が沢山いて美しい琵琶湖にもどって欲しいです。
私の父と叔父(生きていれば父93才、叔父91才)はとても仲の良い兄弟で、トラック輸送がひろまるまでは、丸子船で物を運んだり、近江八幡の北の庄へ八幡瓦の原料の土を運んでいました。丸子船の船先の方で寝泊りしていたことも覚えています。彦根の松原周辺には4〜5軒の瓦屋があり(今はない)瓦土(粘土)や柴を丸子船で運んでいました。燃料は原油だったと思います。船には運転する部屋(機械室)があって、子供の頃舵を廻させてもらたことがあります。船の上部(屋根の部分)の板が縦真半分に何枚もはずせる様になっており、そこに物を積んでいました。荷物を降ろすと再び板をはめ、元通りの屋根の形になって琵琶湖を走りました。
シケで近江八幡に何日も停泊しなければならない様な時は、彦根の松原から出港するときに、母が炊いたご飯をおひつに入れて、おかずも何日分も弁当箱にいっぱい詰めて送りだしていました。父は天気を見るのが上手で「明日はシケや」とピタリと当てました。父は戦時中、旧海軍に行っていました。海や琵琶湖には縁があったのだと思います。戦争が終わった頃は物不足で、柴や野菜(南瓜、米などありとあらゆるもの)を船に積んで、帰りに土(細長く切られていた)を積んで来て、彦根の瓦屋さんに売っていました。
シケで船が転覆しそうな時は積み荷の瓦の土を捨てたそうです。一度難船して新聞記事になったこともあります。父の運転する大きな丸子船で、板をはずした中にゴザを敷いて、大阪の親せきの人達と何度も竹生島や多景島へ観光に行ったり水遊びをしました。
父が近江八幡へ瓦の土を採りに朝の2時半くらいから出港して次の日に帰ってくる時や、天気が激しく変わって荒れ模様になった時などは、帰って来るまでとても心配で、母や私、妹はいつも仏様に手を合わせて無事を祈っていた様に思います。母も父が船頭をしていた間は寿命が縮まったと思います。船を持ってこんな商売をする人はあまりいなかったので経済的には楽でした。その分、母が一人で農業をしていたので大変だったと思います。父が粘土を積んで帰って来た時、船の太い綱を陸の杭にくくりつけるのがとても上手で、そのことを妹が自慢していました。
55才
昭和25年頃 彦根 50年前、家では田舟を使っており、田へ行くにも漁をするにも使用した。当時は子供だったが手伝いをするのにも田舟に乗ってついて行った。漁も、コイト(小糸網漁)もしたし、ウナギツツをはじめ、いろいろな道具を使ってフナなどの魚を日常的に採っていた。家では、父たちが竹の皮の部分を使い漁の道具作りをしていたのをよく覚えている。 60才代
昭和25〜35年 彦根市
付近
田舟(展示してある川船くらいの大きさでもう少し丸みがあった。舟の形は作る大工さんによって違う)を操って魚採りをした。夜はカーバイドをつけ、トモを前にして船を進め、ヤスで魚採りをした。母親が竿で舟を操るのに苦労していた。昔、レンゲの花が咲いている頃大雨が降ると、田の水が川に流れ大量の魚が仮死状態になった。レンゲ汁といって、大変臭いものだった。 60代男性
昭和25〜26年頃 彦根市 帆はなくエンジンで動いていた。彦根から大津へ主に炭を運んでいた。展示の船の様な帆はなかったが、船体の形はこれと同じ様だった。子供ながらに大変この船に憧れていた。やっぱり木の船はいいものだ。
昭和30〜35年頃 彦根市
尾末町
丸子船で、粘土を運搬していた。彦根市は母の里のため、子供の頃は夏休みなどによく行った印象がある。 55才
昭和30年〜 彦根市
石寺町
昭和35年頃までは、日常の農作業に、田舟を使用せずには田んぼへは行けなかった。町内の周りは川が流れ、各戸に一舟持っていた。曽根沼があってその幹線が川で、農作物や農機具はすべて舟で運んだ。現在は土地整理で川が道路となり、軽自動車で運ぶ様になった。 71才
昭和30年代 彦根市
石寺町
稲を刈り取った後、田舟に稲を積んで家の近くの田んぼまで運んだ。稲が重くて沈みそうだったのを思い出す。曽根沼がまだ干拓されていなかったので、田んぼが島のようになっていた。 42才
昭和32〜42年頃 彦根市 今津か木之本の辺りから彦根まで、屋根瓦の材料にする土、粘土の塊(幅1m弱、高さ40〜50cm)を丸子船で運んでいるのをよく見かけた。おそらく、城下町で屋根瓦の家が多かったためだろう。 50才代の男性
昭和37〜38年頃 彦根市
曽根沼
(干拓)
田んぼへの往き来に田舟を利用した。お盆の頃の月夜の晩に、そう麺などを持って舟に乗り込み、途中で停泊してのんびり楽しい夕食をとった思い出がある。遠い遠い思い出。 40才
昭和52〜57年頃 彦根市 近くに曽根沼という沼があり、おじさんが稲刈りに田んぼに行く時に田舟に乗せてもらって行った。稲刈りの間は田んぼを走り回った思い出がある。 30才代の男性
彦根 大きな木造船を大船(オブネ)と呼んでいた。今でいうダンプカーの様な感じ。近江八幡の方から瓦や土(瓦にするための土で良質)、高島の方からは薪、柴、炭といった燃料にするものが運ばれていた。他にもお米なども積まれていた。私自身は今、彦根の漁師町で湖魚料理屋をしており、作った川魚料理を河瀬の方に売っています。
幼少の頃 彦根市
八坂町沖
朝早くからポンポン(焼玉エンジン)の音を響かせるので、目が覚めてしまった思い出がある。 71才
子供の頃 彦根市
松原町
近江八幡の土を彦根の松原まで運んでいた。瓦屋が多く、近江八幡の土が瓦を作るのに適していた。近所の人が2〜3隻持っていた。子供の頃、丸子船の上に乗って遊んだことがある。丸子船を実際に動かしていた人(明治42年生まれ)を知っています。 71才
青春時代 彦根市
松原
水泳場
木造船を漕いで沖へ出ていた。船はシジミ船。 60才