丸子船 Q & A
丸子船の船釘はカーブを描いていますが。 材を縫い合わせるように打ち込むため、最初にわざとカーブをつけるのです。そうしてから打ち込むと、だんだんと彎曲しながら材に入り、最後には釘の頭が見えなくなります。
丸子船の帆の材質は何ですか? 木綿です。松右衛門織(まつえもんおり)と呼ばれる2本11組の平織りで織り込まれたものです。船の大きさによって枚数は異なりますが、数反を麻縄で荒く接ぎ合わせてあります。
湖北にあった最後の丸子船はいつ頃作られたものですか? 昭和25年に作られました。
丸子船の耐用年数はどのくらいでしょう。 手入れの仕方で変わったようですが、大体50年くらいはもったようです。
丸子船の舳先にある黒い模様は何ですか? 銅板に墨と菜種油を錬りあわせた塗料を塗り、等間隔に張ったもので、ダテカスガイと呼ばれます。元来は材の合わせ目に用いたものと思われますが、琵琶湖の船の特徴となっており、今でも鋼船やFRPの船に好んで描かれています。
丸子船の舳先のヘイタ構造は他で見たことがないように思いますが。 そうです。琵琶湖の船に独特のものです。
丸子船の底は丸くて水をかき出すのが大変だったと思いますが、どのような道具を使ったのでしょう? 他の木造船と同様に、アカスクイという塵取りのような木製の道具を使いました。ちなみに、材の合わせ目には槙の木の皮(マキハダ)を詰めているので、大量の水が浸透することはありません。
丸子船の舵が小さいように思えるのですが。 あれ以上に大きいと上げ下ろしが大変なのです。あれぐらいでちょうど良いのです。
丸子船の喫水線について教えてください。 荷物を積まない時にはオモギの下あたり、荷物を一杯に積むとオモギが隠れるところまで沈みました。この場合には棚板を取り付けて、積み荷が濡れるのを防ぎました。
丸子船はいつ頃からあったのですか? ルーツについては良くわかっていません。遅くとも十七世紀初頭の文献、『江州諸浦れう船ひらた船之帳』(慶長六年、一六〇一年)には丸子船や丸船といった言葉が見受けられますが、それ以前の『模本片田景図』(原図は天文二十一年、一五五二年)や『近江名所図』(永禄年間、一五五八〜七〇年頃)といった絵図にも、丸子船らしき船が描かれています。なお、構造船そのものは摺鋸が発達した中世後期と言われているので、もしかすると丸子船もその頃までさかのぼるかもしれません。
丸子船はどのような木材でできているのですか? 荷重や衝撃を受けやすい部分は杉、喫水を受ける部分は槙、上周りの細かい細工が必要な部分は檜です。
丸子船の帆柱は何故船体のまん中ではなく、後方につけられているのですか? まん中にあると荷を積みにくいからです。また、荷を積んだ時の重みのために、まん中で風をまともに受けると御しにくいためです。
丸子船の上に乗っている長い槍のようなものは何ですか? 棹です。着岸や離岸の際に用いられました。
かつての琵琶湖の船は丸子船以外にひらた船と呼ばれるものがあったそうですが、ひらた船とはどのような船ですか? 横断面が矩形の船で、漁船や田舟(農業船)のことです。
丸子船のどういうところが琵琶湖に適しているのですか? 喫水が浅いのに荷受けが良いことです。この特徴は船体の両側につけられたオモギによるものです。詳しくは牧野久実著「丸子船の横断面が語ること」『史学』2003(印刷中)を参照してください。
琵琶湖の北から南まで丸子船で行くと、どのくらいかかったのですか? 北の塩津浜を夜中の1時頃に出ると、うまくいけば早朝には南の浜大津に着いたそうです。ただ、風の無い時には1週間も2週間も風待ちをしなければならず、船頭は簡単な生活用具を船に積んでいたそうです。
風待ちをしている間、トイレはどうしたのですか? シビンも積み、陸にあがったときに肥料として用いました。湖に直接用をたすことはなかったそうです。
丸子船の帆布はどうしてあんなにおおざっぱにはぎ合されているのですか? 受けた風を逃がすためです。完全な1枚の帆布だと、風の力をすべて受けてしまうので、かえって危険なのです。
帆柱を上から見ると、断面が四角いのですが、どうして丸くないのですか? 丸いと、風の力をあらゆる方向から受けるので、船の安定性が保たれません。四角いと一定方向に受けられるので、安全なのです。
琵琶湖最後の丸子船が展示されていると地元の方が教えてくれたのですが、どこで見ることができるでしょうか。 新造したものは当館所蔵のものです。また、湖北の丸子船の館にも所蔵されています。実際に湖上で使用されていた最後の丸子船は、もともと湖北にあったのですが、ある人が買い上げ、補修した後、観光船として使用されています。
草津にある芦浦観音寺の住職が、代々湖水奉行として湖上交通の利権を握っていたと聞いたことがあります。湖水奉行というのは、世襲だったのでしょうか?また、大津の在所に「観音寺」という地名が残っているのは、芦浦観音寺と関係があると聞いていますが、当時の大津・観音寺には寺のどのような関係者がいて、水運をとりおこなっていたのでしょうか。それとも、関係者とは別に地の商人なんかがいたのでしょうか。具体的に名等が知られているならお教えください。また、大津・観音寺の昔の姿について、調べるとしたらどんな資料がどこへ行けばありますか。 次の本を参照されることをお薦めします。 杉江進「船奉行観音寺」(『図説 大津の歴史 上巻』大津市、1999年)更に詳しくお知りになりたい場合は、少し難しいかもしれませんが、下坂守「湖上水運の再編」(『新修大津市史3近世前期』大津市役所1980年)安岡重明・森谷剋久「大津百艘船」(『新修大津市史3 近世前期』大津市役所、1980年)高島幸次「芦浦観音寺と湖上水運」(『草津市史資料集6芦浦観音寺』草津市教育委員会、1997年)を一度ご覧ください。いずれも少なくとも県内の図書館には常備されていると思います。もちろん当館の図書室にもございます。なお、大津の観音寺について更に詳しくお調べになりたい場合は、大津市歴史博物館へお問い合わせください。
古代を中心として内水面交通における津(港)について調べています。 琵琶湖の湖上交通における津の所在地・立地と当時の琵琶湖沿岸の地形。A@に関する文献史料がまとまって掲載されている文献(論文・市町村史など)B琵琶湖沿岸の地形が変遷してゆく過程を時代ごとにしるした図版・論文などC琵琶湖沿岸における津(港)・船着き場など港湾・内水面に関する発掘調査の事例・成果など 文献は論文名や掲載雑誌・図書名で結構です。 古代に限らず、一般的な湖上交通史に関する文献等をあげておきます。喜多村俊夫『近江経済史論攷』大雅堂1946用田政晴『信長 船づくりの誤算ー湖上交通史の再検討ー』サンライズ出版1999大津市歴史博物館『企画展 琵琶湖の船ー丸木舟から蒸気船へー』1993木村至宏「琵琶湖の湖上交通の変遷」『近江の歴史と文化』思文閣1995橋本鉄男『丸子船物語』サンライズ印刷出版部1997出口晶子『舟景の民俗ー水辺のモノグラフィ・琵琶湖』雄山閣出版1997滋賀県教育委員会『琵琶湖総合開発地域民俗文化財特別調査報告書』1ー5、1978ー82の各巻の「湖上交通」の項その他、大津市史、草津市史、野洲町史、長浜市史、彦根市史(旧版)などを参照下さい。
元禄から明和期の間に、丸子船の輸送量が大きく減るのは何故か。 距離は長いが陸揚げする必要があまり無い瀬戸内海経由の西廻り航路が出来たことによって陸揚げの必要のある琵琶湖経由のルートが衰退したためです。
丸子船には釘の跡が見えませんが、釘は1本も使わないのですか? たくさんの釘が使われています。縫釘といって、釘を埋め込み、材と材をはぎ合わせるようにします。埋め込んだあとは埋木と漆喰を菜種油で塗ったパテで蓋をするため、外からは釘の頭が全く見えないのです。
丸子船の後ろにお宮のようなものがありますが、一体なんですか? これはカサギと言います。橋の下をくぐる時には帆柱が邪魔になります。そうした時には帆柱を一旦抜いて、カサギの上に斜めに立て掛けるのです。
船体両側のオモギはどうやってとりつけたのですか? 力で少しづつ押えながら、船体全体のカーブに合うように曲げてとりつけました。熱は一切使いません。昔は近所の船大工が協力して曲げたそうです。


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MAKINO, Kumi 2003